立花隆も女性週刊誌のライターだったことの意味…商業主義と志のはざまで、日本のノンフィクションはどこへ行く?《保阪正康寄稿》
2023/3/21
マスメディアが描かない部分
前篇《いまあえて問う、佐野眞一の死が意味するものとは何か…ノンフィクションといジャンルの命運》で、日本のノンフィクション成立史に関わって、鎌田慧と立花隆の作品に触れました。
鎌田慧の『自動車絶望工場』は、鎌田自身がトヨタの下請工場で期間工として働いたことを元にした記録文学です。低賃金、劣悪な労働環境、荒む労働者の内面などが生々しくルポルタージュされていて、非正規労働問題や貧困問題がクローズアップされている現代でも、古びずに読まれ得る内容だと思います。
この作品が画期的だったのは、時代のなかでまだ明らかにされていない現実を書き記すために、鎌田が身を切る労働の現場に飛び込み、そこでの社会矛盾を伝えたことです。それは、いわば「ノンフィクションを志向する運動」だったのではないでしょうか。
『自動車絶望工場』
もう一つの、立花隆『田中角栄研究』は、田中金脈の源泉を暴露するという立花のアイデアの下、立花が率いる形で、『文藝春秋』の精鋭記者や腕のいい社外ライターが取材班を組んで角栄の資産形成過程を徹底的に調べ上げ、最終的に立花が角栄論として原稿化するという、極めて大がかりな作品でした。
この作品は田中政権を追い詰めることになります。その手法は、一人で自動車工場に入っていった鎌田の作品とは対極にありますが、共通する時代認識があるように思えるのです。
それは、高度経済成長の終焉期に、繁栄の裏側で露わになりつつあった諸問題を描こうとする強い欲求です。労働現場の想像を絶する窮状、かつてない形での政治腐敗、深刻化する公害、泥沼化するベトナム戦争と学生運動の過激化、戦後民主主義のもとでは秘匿された現代史……といったことであり、それらについては、新聞やテレビなどのマスメディアが戦後の表現の自由のなかで部分的には報じていましたが、描かれない部分が大きくなってきていました。
『田中角栄研究全記録』
鎌田、立花の他にも、澤地久枝、本多勝一、沢木耕太郎といった書き手が、描かれない部分を描くことへの社会的な要求に応えるように、この時期にノンフィクション作家として出立しています。私も、アカデミズムが語る昭和史に異を唱え、歴史体験の当事者に取材を重ねながら、証言を通した新たな歴史叙述を目指していました。
当時のノンフィクションの書き手は、新聞や雑誌の記者を経てフリーになる、また出版社の編集者を経てフリーになるケースが多かったと思います。フリーとは、名刺や肩書のない自由な立場であり、そうしたフリーの書き手が巨大な出版社と組んで仕事をすることになります。いわば、徒手空拳のフリーライターが、出版資本と対峙して生きていくことになるわけです。
出版資本との拮抗
出版社の側は、「この書き手の書くものは商売として成り立つ」とみなすと、フリーの書き手を抱え込み始めます。そして、ある時期からは、書き手に「金と人と時間」を保障するようになります。つまり、取材費を出して、データマンを付けて、書き手の執筆時間をつくってくれるようになるわけです。
そのかわり、書き手は、出版社が提示するテーマや、出版社が先導するノンフィクションを書いていく傾向が強まります。出版資本は、基本的にはコマーシャリズムとセンセーショナリズムの2本立てで動きます。出版資本が持つ商業主義の冷徹な意向は強い力を持つのです。
ただこのことは、ノンフィクション作家が出版資本の言うがままになるということを直ちに意味するわけではありません。志ある書き手と意欲的な編集者の同志的な結びつきが、出版資本と緊張関係を生み、作品を生み出す創造的な場を形成することがあります。自らのテーマを抱えたノンフィクション作家が、出版社の商業主義と対峙しながら書くことが、その葛藤ゆえにかえって時代を問う重要な作品として結実することもあるのです。
かつて、立花隆と雑談していた折り、若き日に女性週刊誌『ヤングレディ』のアンカーマンを務めていたことを話してくれたことがあります。「あなたはそういう仕事もしていたのか」と私は驚いたのですが、その時の立花の「いや、そういう仕事を通じて、何をどうやって大衆にアピールするかを学ぶんだよ」という答えに妙に納得させられたものです。
立花と同時期、鎌田慧も『ヤングレディ』のアンカーマンをしていて、対照的とも思える二人のノンフィクション作家が、当時の物書きが置かれた立場ゆえの共通体験を持つことは興味深い事実です。
かく言う私も20代に2年半ほど電通PRセンターで働き、コピーを書くなどの仕事をしていたことがあります。当時は、やっていることが虚業に思えて嫌だったけれど、いまからすると、あの経験は自分の仕事を商業主義のなかで打ち出していくための訓練になっていた部分もあるかもしれないと思います。
私が言いたいのは、こういうことです。ノンフィクションを書くことは、出版社の支えなくしては成り立たず、書き手が自分のやりたい仕事を実現するには、金銭的にも、生活の面からも、また出版社との関係においても、自分の気に染まない、抱え込まれた仕事をやらざるを得ない局面がある。
しかし、自分のホームグラウンドを持たずに、出版社の言いなりになっていれば、単なる外注ライターになってしまう。出版社は常に、安価に強く縛ることができる外注ライターを探しています。
沢木耕太郎という特異な存在
だから、バランスをどう取るのかが問われるのです。私たちは、生活のために請け負った仕事からも、現代の正体を解く養分を自分のホームグラウンドへと汲み取りながら、ささやかな志を捨てずにやってきました。
ノンフィクション作家は、社会との対峙以前に、いや、それも含めて社会なのでしょうけれど、出版資本と対峙する場に否応なく立たされます。丸ごと抱え込まれれば、楽と言えば楽なのですが、それでは自立したノンフィクション作家と言えなくなってしまいます。
ところが現在の出版不況下では、出版社の側は取材費も人手も、あまり出せなくなっています。こうなると、ノンフィクションは存続の危機に立たされます。フリーの立場にある書き手としては、一方でお金を稼ぎながら自分の書きたいノンフィクションを続けるか、出版社の外注ライターになるか、そうでなければノンフィクションをやめてしまうか、という選択を強いられることになるのです。ノンフィクションの未来を、楽観的に語ることはできません。
私はノンフィクションの文学賞の選考委員を務めることがあるのですが、最近では、新聞社やテレビ局に在籍する記者の作品が候補になることが多くなりました。彼らは「金と人と時間」を保障された立場で取材を重ね、自らの正規の仕事からは積み残しとなったテーマや、仕事で扱ったテーマの別の側面を世に問うわけです。
もちろん、そこからすぐれた作品が生まれる場合もありますが、書き手に自立した精神が見えず、どこか他動的な印象を与える作品も数多く目にしてきました。
このようなタイプの書き手は、私たちの時代にもいたように思います。厳しい言い方になりますが、ノンフィクションにおいては、彼らの恵まれた立場は、そのまま、彼らの弱点なのです。彼らの権威は、そのまま、彼らの体制的な限界を示しています。
自前の志で、矛盾をはらみながら、時代や社会と向き合うところからしか、ノンフィクションは生まれにくいと私は思っています。
ノンフィクションと日本語について先に触れましたが、沢木耕太郎は、ノンフィクションの文体をオリジナルに彫琢し、新たな方法論を探り続ける数少ない書き手です。しかし、寡作のなかで、自らのノンフィクションを吟味し、追求する姿勢は沢木だから許されることであり、通常の書き手たちは常時、生活に直面させれていて、そういう余裕を持てません。
さらに現在の不況下で出版社の支援は手薄になり、書き手の自発性はさらに弱まって、他動的な要因が増えていきます。
この現況を見るにつけ、鎌田や立花が先陣を切ってから50年、日本のノンフィクションは、一つのジャンルを形づくる以前に、一つの円環を閉じた感もあります。私が危機感を持つのは、自立的なノンフィクションが廃れていくと、ジャーナリズムの健全性が失われ、政治の独善が勢いを増すことです。政治のなかの見えない領域がさらに広がり、ファシズム的な空気が社会に充満していくことです。
最終的には、ノンフィクション自体、政治の独善の枠組みのなかでのみ生み出されるようになってしまうのではないでしょうか。
自立した批判精神とともに
その傾向は、すでに始まっています。いちばん楽に稼ぐのは、権力の側でノンフィクションを書くことだという態度が、いま明らかに、新たな風潮となっています。権力の代弁としてのノンフィクションが成立してしまったのです。権力の暗部を暴くのではなく、権力の舞台裏を、権力の都合のいいように面白おかしく書くノンフィクションが、近年、次々と刊行されています。これは、ノンフィクション衰退の果てに起こりつつある現象だと思います。
そういう潮流に抗う、自立した批判精神が込められた近年の印象的な作品を2つ挙げます。
元共同通信の春名幹男が、米国で公開された文書などを15年かけて読み抜き、関係者への取材によって日米同盟の深部を明らかにした『ロッキード疑獄ー角栄ヲ葬リ巨悪ヲ逃ス』(2020年)。この一冊は、角栄以上の巨悪として、米国の傀儡的存在だった岸信介的なるものを名指します。戦後政治史に新たな視点を提示する、ノンフィクションの成果です。
青木理が、安倍元首相のルーツを辿り、保守政治の奥行きある歴史を見届けた末に、空疎で凡庸、しかし独裁的な政治家がなぜ生まれたのかを問いかける『安倍三代』(2017年)。私は、青木の論にすべて共感するわけではありませんが、彼の仕事によってしか見えない、現代政治の矛盾というものがあると思います。
私は、ノンフィクションは反体制的な立場であればいいと思っているわけではありません。反体制にも「権力」は巣食うわけで、反体制も含めた政治のドグマや陰湿性を暴けるかというところに、ノンフィクションの力量が試されるのではないでしょうか。
また、直接、政治について書くわけでなくても、私たち一人ひとりの生き方が政治に規定されている以上、個人的なテーマから時代の政治をあぶり出すというのも、ノンフィクションの大事な仕事だと言えます。
これまで述べてきた日本の出版状況におけるノンフィクションの成立とその衰退は、晩年の佐野眞一が抱えたであろう苦悩と無関係ではないと私は思っています。現代という時代の仮面を剥ぎ取り続けた佐野は、ノンフィクションをとりまく環境のなかで様々な要請を受けて、その作業をエスカレートさせていったような気がします。ですが、佐野の初心は、間違いなくノンフィクションの本質的な使命と結びついていました。
その志を改めて見つめながら、書き手たちが苦闘を強いられざるを得ないいま、それだからこそ地力をたたえたノンフィクションが生まれることを私は念じています。
(文中敬称略)