苦悩を抱えた晩年10年間
昨年9月にノンフィクション作家の佐野眞一が亡くなりました。私は佐野とは対談をしたことがあり、多少のつき合いもありました。その40年以上にわたる作家生活の前期に書かれた『遠い「山びこ」ー無着成恭と教え子たちの四十年』(1992年)や『旅する巨人ー宮本常一と渋沢敬三』(1996年)を、刊行当時、私は印象深く読んで、人間を通して戦後日本に迫ろうとする、力量のある書き手だなと感じていました。
その後、佐野は、『東電OL殺人事件』、『阿片王ー満州の夜と霧』、『あんぽんー孫正義伝』など、続々と話題作を刊行していきます。「昭和史」というホームグラウンドで地味な仕事を続けてきた私には、佐野が出版社の要請に限界を越えて応えようとしているようにも映り、拠点となるホームグラウンドを築いたほうがいいのではないかとも思いました。
一方で、旺盛な執筆力を驚嘆の眼差しで見ていたことも確かで、佐野のホームグラウンドとは、私にとっての昭和史のような「研究対象の1ジャンル」ではなく、現代という時代の仮面を剥ぐ、また、人間を独自の歴史的文脈で捉えるといった「1つのテーマ」なのではないかと感じるようにもなりました。
ところが、2012年、佐野は、橋下徹大阪市長を描く『週刊朝日』誌上でのノンフィクション作品で、その取材手法と記事自体が、差別を助長するものだという批判を受けることになります。私も、その批判には理があると感じました。同時期に、それまでの自身の作品におけるいくつかの無断引用を指摘された佐野は、それに対して抗弁を試みますが、少しずつジャーナリズムの表舞台から退却を余儀なくされていきます。
佐野を支える少数の編集者や出版社の助力もあり、『僕の島は戦場だったー封印された沖縄戦の記録』(2013年)や『唐牛伝ー敗者の戦後漂流』(2016年)などの作品が刊行されましたが、佐野の晩年10年間は苦悩を抱えたものであったのではないかと私は想像しています。
佐野眞一『旅する巨人』の自筆原稿
辣腕で鳴らしたノンフィクション作家は、なぜこのような軌跡を辿ることになったのか。それはすべて佐野が招き寄せたことだと言う人も多いでしょうけれど、私は日本におけるノンフィクションという領域の特異性が佐野に影響を及ぼした部分もあるのではないかと思っています。今回は、佐野の苦悩にも想像をめぐらしながら、私もその一角に身を置くノンフィクションというジャンルの命運について語ってみたいと思います。
日本語はノンフィクションに向いているのか?
ノンフィクションとは、フィクションに対置される表現ジャンルです。虚構の物語ではなく、事実や史実に基づいて現実や歴史を書く作品のことです。このジャンルが出版状況のなかに、また社会のなかに根づいて発展するためには、3つの条件が必要だと私は考えています。
1つは、大前提ということになりますが、個人の基本的人権や民主主義が擁護される国であることです。目前の現実や史実を復元するには情報公開などの民主主義的な運用が不可欠であるし、虚構に託さずに事実を正面から暴くためには表現の自由が保障されていなければなりません。
もちろん、ノンフィクションの役割には権力が秘匿する部分をこじ開けるということがありますが、前提としての民主主義が存在しない専制支配の下では、ノンフィクションの発展はあり得ません。
佐野眞一『誰が本を殺したか』自筆原稿
2つめは、ノンフィクションを書く「言葉」の問題です。事実を明らかにする言語構造、また言語環境がなければ、ノンフィクションは広がりや深まりを持ち得ません。
言語構造という面で言うと、果たして日本語はノンフィクションに向いているのかという疑念を、私は持ち続けてきました。主語と述語の骨格が明確でなく、文末でやっと否定が明らかになるような曖昧な構造を持ち、形容詞による修飾が過多になりがちな日本語は、事実を正確に伝えるノンフィクションの核心を担い切れないのではないかと考えてきました。
言語環境ということでは、1ともからむ問題として、明治維新から敗戦に至る近代史において、日本語による表現が絶えず弾圧されてきたという事実があります。日本語は、大日本帝国憲法における「臣民の自由」の枠内でのみ使うことを許容され、表現の自由は制限されてきたのです。このような条件下では、権力と対峙する表現は充分には育たず、質の高い日本語によるノンフィクションが生まれることは極めて難しかったと言えるでしょう。
70年代に成立した本格ノンフィクションの歴史
3つ目は、ノンフィクションの発行母体となる出版資本の商業主義的な後押しです。これはプラスにもマイナスにも作用することになりますが、成立条件としては欠かせないものであり、後に詳述したいと思います。
日本における本格的なノンフィクションの成立は、戦後、それも1970年代前半と私は考えています。指標となる作品は、たとえば鎌田慧の『自動車絶望工場ーある季節工の日記』(1973年)であり、立花隆の『田中角栄研究』(1974年)です。
もちろん、それ以前にも様々なノンフィクション的な作品はありました。松本清張は『日本の黒い霧』(1960年)で占領期の日本に食い込むアメリカの存在を暴き、『昭和史発掘』(1964年)ではファシズムの時代の実像に迫ろうとしました。
これらは、仕事の内実からしても、いわゆる「文春ジャーナリズム」という調査報道の基礎を作ったという点からも、記念碑的な作品ですが、人気作家の清張が本業の小説以外のノンフィクションに踏み込んだという性格を有し、ノンフィクションの自立した展開と言うには、やや位相が異なるものでした。
有吉佐和子が、フィクションとノンフィクションのはざまで、高齢者問題をテーマとした『恍惚の人』(1972年)、環境問題に取り組んだ『複合汚染』(1975年)などの作品を世に問うたことも、同じように、作家による新たなジャンルの表現だったと言えると思います。
付け加えておくと、戦後まもない時期に多数発行されたカストリ雑誌に掲載され、それ以降も週刊誌などで一つのジャンルを形成した「実録小説」というものがありました。これらは読み物としての色合いが強く、煽情的な内容、事実をなぞるだけの記事、また虚構を織り交ぜたものなどが大半を占め、ノンフィクションと呼ぶことは難しいと思います。
ノンフィクションの先行的な潮流として、九州を舞台にして生み出された記録文学の系譜があります。水俣病の患者とその社会運動に寄り添いながら、独特な文学的表現力で現実を刻んだ石牟礼道子の『苦海浄土ーわが水俣病』(初出は1960年)、筑豊の炭鉱で鉱夫たちの苛酷な運命を現代史のなかで見つめた上野英信の『追われゆく坑夫たち』(1960年)などです。
私はこれらの作品を大事なものとして読んできましたし、これからノンフィクションを志す人にはぜひとも読んでもらいたいと考えています。石牟礼や上野はすぐれた先駆者ですが、彼らは地方で孤塁を守り、商業ジャーナリズムの一線に出てくることは少なかったと思います。
後篇《立花隆も女性週刊誌のライターだった…商業主義と志のはざまで、日本のノンフィクションはどこへ行く?》に続きます。
(文中敬称略)