場当たり的な「解答」を出すだけの岸田文雄首相が生む「新しいファシズム」がなぜヤバいのか《保阪正康寄稿》

場当たり的な「解答」を出すだけの岸田文雄首相が生む「新しいファシズム」がなぜヤバいのか《保阪正康寄稿》

2023/2/12

gendai.media

 

物を見る尺度も、人を見る目もない
岸田首相は、国民を統制する強権的な力を振るうわけではありませんが、国民の面倒を手厚くみる姿勢も皆無です。2つのタイプに類型化できないし、その混合型でもない。政策上の確固とした方向性もなければ、施政に向ける情熱も感じられない。あるのは、目の前に掲げられた「問題」に対して、出題者の意向に沿って「解答」を出すという場当たり的な態度だけなのです。

岸田首相にとって、その出題者とは国民ではありません。「景気を」「賃上げを」「物価対策を」「カルト対策を」「平和を」といった国民からの切実な問いかけには、答えることがありません。

岸田首相にとって、出題者は常に、自民党のコアな支持基盤であり、そして何より、首相が最大の後ろ盾と思い込んでいるのであろうアメリカなのです。軍拡を増税で行おうとする発想には、アメリカの要求に応えるためには国民生活を犠牲にすることも厭わないという、岸田政権の決定的な歪みが如実に現れています。

 

岸田政権による防衛3文書の改定と敵基地攻撃能力の保有方針、また防衛費倍増計画は、ひたすらアメリカの意向に沿う形で進められているように見受けられます。アメリカの方針と向き合わねばならないにせよ、岸田首相には国家意識が稀薄であり、国民生活への想像力もないので、そこにはアメリカとのディスカッションの痕跡がまるで見られないのです。

私は安倍首相の戦前回帰志向や、菅首相の強権主義的な政治手法を強く批判してきましたが、彼らには少なくとも「やりたいこと」がありました。岸田首相は、やりたいことがあって首相になったわけではなく、なれたからなっただけの首相のように思われます。彼は究極の「使命感なき首相」ではないでしょうか。

岸田首相には物を見る尺度、人を見る目がありません。冒頭にも見たように閣僚や内閣官房スタッフが次々と更迭されていますが、通常の身体検査や人物洞察力があれば、このような事態はあり得ません。

外遊中の行動が問題になった長男の秘書官に典型的なように、身近に置くのは、自らの身内、自らにとって便利な存在、自らの言うことを聞く者ばかりのようです。またその人間観には、いま風の偏差値至上主義を感じることもあります。国民が汗水たらして働き、呻吟しながら生活していることへの共感が見えないのです。

 

強権政治の捨て駒か?
かつて中曽根康弘首相が、自分と政治的立場を異にする後藤田を官房長官に据え、イラン・イラク戦争の際に自衛隊掃海艇派遣に強く反対する後藤田に最終的には従ったというような、戦後保守政治の奥行きは完全に消えて失くなった感があります。

日本の近現代史のなかで、首相が短期間で退任し、後に就いた首相もまた早々に退任するということが繰り返され、国民の記憶からは次第に薄れていく、そういう時期が5回ありました。そのなかには、やはり使命感が見えない首相がいたように思います。

 

まず、1937年から1941年にかけて、林銑十郎近衛文麿平沼騏一郎、阿倍信行、米内光政、近衛文麿と首相が変わり、東條英機が現れて太平洋戦争に突入していきます。

次に敗戦後、東久邇宮稔彦王幣原喜重郎吉田茂片山哲芦田均と目まぐるしく首相が変わり、その後、吉田茂が1948年からの長期政権を敷いて、アメリカの占領政策と向き合いながら戦後体制の基礎を据えます。

さらに1970年代半ば、戦後を画する首相であった田中角栄の退陣後、三木武夫福田赳夫大平正芳鈴木善幸と首相が変わり、中曽根康弘首相が長期政権において「戦後政治の総決算」を行います。

そして中曽根首相退陣後の平成初頭の十数年は、竹下登宇野宗佑海部俊樹宮澤喜一細川護煕羽田孜村山富市橋本龍太郎小渕恵三森喜朗と次々に首相が変わった末に、小泉純一郎首相が現れて国民の人気を博し、郵政民営化新自由主義的改革を行います。

さらに第1次安倍政権の後、福田康夫麻生太郎鳩山由紀夫菅直人野田佳彦と移り変わった後、第2次安倍政権が成立し、憲政史上最長の執政期間に、官邸支配、軍事強化、アベノミクスなどが進められたのです。

つまり、信頼度の低い短期政権が繰り返される時期の後に、長期政権が成立し、良くも悪くも時代を変えるような政治の方向転換がなされるという歴史の法則性を指摘することができると思います。上記の5つのなかには、国民の政治不信が高まった挙げ句に強権的なリーダーが登場し、明らかにファシズム的な空気が充満した長期政権も含まれています。

 

岸田首相を見ていると、6度目の長期政権への呼び水か、強権政治の捨て駒かとさえ思えてきます。タモリが、今年の日本は「新たな戦前」になるのではないかと言ったそうですが、「新たな戦前」とは「新たなファシズム」に他なりません。次の長期政権がファシズム政権でない保証はまったくないのです。

いや、人間の顔が見えない空虚な首相の下で、「新しいファシズム」は、すでに始まっているのかもしれません。