「すべては聖なるもの」: P.P. パソリーニ生誕100年、ローマで開かれた3つの展覧会 Part1.
小説『生命ある少年たち』からはじまって、映画「アッカトーネ」、「マンマ・ローマ」、「リコッタ(Go .Ro .Pa.G)」、「マテオによる福音書(奇跡の丘)」、「テオレマ」、「王女メディア」から、さらには今でも直視できないほど徹底的にグロテスクな表現でファシズムを描いた「サローソドムの120日間」まで、常識を覆す、社会を風刺、あるいは攻撃する映画作品、及び各メディアでの過激な評論、インタビューのせいで、パソリーニは常にスキャンダルの中心であり、右派だけではなく、左派の知識人(ウンベルト・エーコもそうですし)からも激しく攻撃され続けてきました。
現代から観ると、社会学的なフィールドワークでもある「愛の政治集会(Comizi d’amore)」、「インドに関する映画のための覚書」などのドキュメンタリーや、「大きな鳥、小さな鳥」など、コミカルで詩的な作品がいくつかあるにしても、確かにパソリーニが描くのは、暗く、重たく、救いがない悲劇であり、背徳的な官能の世界です。
また、自身がホモセクシャルである上に、上映されるたびに議論を巻き起こす映画作品の数々のために、教会だけではなく、多くの市民団体から執拗に訴えられ続けたことは前述した通りです。展覧会では、巨大な壁の一面に、パソリーニが生涯関わった告訴、裁判の詳細がびっしりと書き込まれ、その壁そのものが、詩人を深く傷つけた、社会からの終わらない攻撃を描いた、コンセプトアートのようでもありました。
展示されている当時の雑誌には、パソリーニやモラヴィアに心酔した少年の叔父が、「パソリーニ病」を患ったとして、15日間もの間、少年を部屋に閉じ込め、その間に本をすべて(その中にはヘミングウェーも!)捨てたエピソードを語る記事が掲載されていました。その記事によると、少年が通っていた高校の校長まで「ポルノグラフィ小説を読むことで、淫らな趣味に耽り、勇気ある者が奇跡の文化的作品だ!と叫ぶ、スキャンダラスな映画を観ることで、パソリーニ病を罹った生徒は、うちの学校に通うことは許さない」と語り、その少年は、どの学校からも登校を拒絶されたそうです(Lo Specchio/1962年)
1962年ということは、いまだパソリーニ初期の時代であり、その頃に創作された詩、小説、映画が、ポルノグラフィだとはまったく思えませんが、旧態依然としたカトリックの倫理観がいまだ強烈な時代の、イタリアの庶民の価値観をも、この展覧会で垣間見ることにもなりました。パソリーニを巡ってこのような現象が起こるたびに、メディアがことさらにスキャンダラスに騒ぎたて、イメージがいよいよ歪められた人物像に注目が集まるようになり、しかしその類の記事をいくつか読むうちに、詩人の肝心の作品をまったく理解せぬままに、何でもいいから大げさに騒ぎたい、という下品さをも感じた次第です。
また、ローマの映画館(Quatro Fontane)で「マンマ・ローマ」の初演の際には、満場の拍手の中、MSI(イタリア社会運動)の青年部、さらにはAvanguardia Nazionale(アヴァングァルディア・ナチョナーレ)などに属するネオファシストグループの青年4人が、「イタリアの若者の名のもとに、『胸が悪くなる』、とお前に言いにきた」と叫んでパソリーニに殴りかかる、という事件が起きています。ところがパソリーニは、繊細な美意識、エレガントな立ち居振る舞い、紳士的な喋り方に似合わず、筋骨隆々の肉体を持っていましたから、逆に青年たちを殴りつけ、そこにセルジォ・チッティ(「アッカトーネ」の主役フランコ・チッティの兄で映画監督)が仲裁に入ったそうです。
その後のインタビューで、パソリーニは「自分の、まるでジャングルにでもいるような、咄嗟の反応を恥じるよ(青年たちを何度も殴りつけ)。郊外の評判の悪い不良たち(「アッカトーネ」、「マンマ・ローマ」の配役には、郊外の札付きの不良たちがキャスティングされ、初演の際に同席していましたから)が言うように「初演の試合」で、かなり殴ってしまった。恥ずべきではあるが、僕がこんな状況に追い込まれたことは認めなければならない。真の満足は、ついに敵が顔を現した、と言うことなんだ。僕の当然(sacrosanto)の権利として、たっぷり彼らの胸を悪くさせた」と語っています(Vie Nuove/1962)。イタリアでは、それから60年ののち、姿を現したパソリーニの真の敵の末裔が、政権を担うことになりました。