「麦三合」の思い出       石森延男

「麦三合」の思い出       石森延男


 戦後、わたしは、国定の国語教科書としては、最後のものを編集した。終戦前に使用していた国語教材とは、全く違った基準によってその資料を選ばなければならなかった。日本の少年少女たちの心に光を与え、慰め、励まし、生活を見直すような教材を精選しなければならなかった。そこでわたしは、まずアンデルセンの作品を考えた。「みにくいあひるの子」「マッチ売りの娘」それから、中学生のために「即興詩人」をとりあげた。日本のものでは、賢治の作「どんぐりと山猫」を小学生に「雨にも負けず」を中学生のために、「農民芸術論」を高校生のために、それぞれかかげることにした。この三篇は、新しく国語を学ぶ子どもたちの伴侶にどうしても、したかったからである。
 ところがCIEの係官は、このいずれも、認めてはくれなかった。理由は、子どもには難かしいというためであった。やや古典的な匂いのするこれらの作品は、やや高度であるかもしれないが、少年少女たちの魂になんとしてでも触れさせたい文章なので、押して、押して、CIEの係官に承知させた。そのとき、係官は、
  「一日ニ玄米四合ト 味噌ト少シノ野菜ヲタベとあるが、玄米一合減して、三合にすることはできないか。」
といいわたされた。詩の、文字修正は出来かねるといいはったが、「それでは、いまの現状とは、あわないではないか。実感が伴わないことになる。贅沢な主食と子どもたちに思われないか。」と理攻めで反問してきた。当時は、一日に米の配給は、三合どころか、一合もない時代であった。そこで、わたしは賢治の弟さんの清六さんに会いに花巻までいった。そうしてこのことを相談すると、
 「かまいませんよ、兄は、そんなことにこだわりません、笑ってるでしょう。」
と、快く認めてくれた。一字のために全文を削除されるよりは、少しの改めをしても、その精神を、子どもたちに味ってほしくて、中学一年の教科書に掲げた。それを見つけた、多くの詩人たちから、また評論家たちから、わたしは詩感がないといってさんざん叩かれた。いやしめられた。けれども、今でも、わたしは、「雨にも負けず」をかかげてよかったと信じている。清六さんと賢治の詩碑のそばでうでた枝豆をたべた愉しさを忘れることはできないのである。
       〔『宮沢賢治全集』月報第1号、昭和33年7月、筑摩書房

 

   CIE~Civil Information and Educational Sectionの略称。
 第二次大戦後、日本占領中のGHQ(連合国軍総司令部)に置かれた民間情報教育局。教育・宗教・マスコミなどの改革を担当。
                        (『広辞苑』第6版)