怒りと批判に満ちたワールドカップ

ギュンター りつこ

FBより

 
 これほど盛り上がらない、いや、怒りと批判に満ちたワールドカップは過去にありませんでした。ドイツチームが日本に負けたことではありません。多くのドイツ人にとって、それは「どうでも良いこと」であり、連日報道されていることは全く別の問題です。
 カリファ国際競技場でのキックオフ直前、チーム写真を撮る際にドイツのメンバー全員が手で口を覆っていたことについて、日本ではどの程度報道されているのか私は知りません。このドイツチームの苦肉の策の「抗議」が、どういった経緯で、誰に対して行われたものなのか、解説したいと思います。
 カタールは2010年に国際サッカー連盟FIFA)によって開催国に選出されて以降、スタジアム7カ所と空港の建設、公共交通機関の大幅拡張などが進められてきました。カタールの総人口はおよそ260万人ですが、そのうちカタール国民はたったの31万3000人で外国人は230万人です。つまり、外国人労働者に大きく依存した国なのです。今回、大きな問題となっているのは、カタールに出稼ぎに来ていた外国人労働者の死者が驚異的に多いことです。以下は2011年から2020年の間の国別の死者数です。
インド2711人、ネパール1641人、バングラディシュ1018人、パキスタン824人、スリランカ557人の合計6751人。
このデータには大きな労働力となっているフィリピン、アフリカ諸国からの労働者の死者数は含まれていないため、実際はこれを大きく上まわる15000人にのぼるだろうと英紙ガーディアンは報告しています。死因のうち打撲、窒息はワールドカップに向けたインフラ建設で起きた落下事故などの可能性が高いとされています。最も多い心不全や呼吸器不全などの「自然死」については医学的な説明がないために断言は出来ませんが、やはり酷暑のなかでの建築現場での労働が関係しているだろうと予想されます。カタールの暑い季節は5月から9月と5ヶ月に及び、最も暑い7月の平均最高気温は41℃、最低気温は31℃です。果たして倒れた建設作業員に対して適切な医療ケアが行われていたのか、甚だ疑問です。これらの統計について、カタール政府は否定も肯定もしていません。
 かねてからカタールにおける外国人労働者に対する虐待、搾取、賃金未払い、性的暴行などの人権侵害は問題になっており、国際人権団体は批判し続けてきました。また、同性愛、性転換もカタールでは違法であり、発覚した者は逮捕の後に拷問、もしくは異性愛への「転換療法」を受けなければなりません。
 ドイツの連邦議会でもSPDドイツ社会民主党)、FDP(自由民主党)、Linke(左翼党)は公共放送によるサッカー中継のボイコットを求めていましたが、CDU(ドイツキリスト教民主同盟)党首のメルツ氏は「批判は当然ではあるが、スポーツイベントは民主主義国でのみ開催されるべきだと決めつけるのは間違いだ。スポーツは人権侵害に注意を向けさせて変化をもたらす機会を与える可能性もある。試合観戦をボイコットすることが正しいことだとは思えない。そもそもドイツチームと監督にはワールドカップ開催国の決定の責任はない」と放映ボイコットに反対しました(現在は放映しています)。メルツ氏はカタールで観戦するドイツのファンに対し、カタールの法律を遵守するよう忠告しました。「結局のところ、ファンはカタールの客人に過ぎないのだから、開催国の法律を尊重するべきだ」
 ドイツ・レズビアン&ゲイ協会(LSVD)は、ドイツのサッカーファンに対し、FIFA (国際サッカー連盟)とカタールの非人間的なシステムを支持しないために、ワールドカップのボイコット、放送の視聴拒否、ワールドカップ関連商品の不買、ドイツ政府がカタールでのワールドカップ開催期間中にカタールへの渡航を一貫して中止することを要求しています。
 しかし、ドイツのほとんどの人権団体とプロテスタント教会は、「国際的な注目度の高さがカタールの多くのことを良い方向に変えているため、ボイコットは逆効果」と指摘し、アムネスティ・インターナショナルもボイコットは呼びかけておらず、「試合を観るか観ないかは各個人の自由である」とコメントしています。
 さて、カタールに対する批判に対し、カタール側のメディアはどのように報道しているのでしょう。カタールのニュースサイト「アラビ21」の編集長フェラス・アブ・ヘラル氏は「カタールのワールドカップ・プロジェクトに参加した大手建設会社の多くは欧米から来たものだ。これらの産業で働く欧米の労働者は、アジアからの出稼ぎ労働者よりもかなり高い給与を得ている。しかし、ヨーロッパの人権運動家たちはこうした事実をほとんど取り上げない。この議論には、偽善、イスラムへの偏見、ヨーロッパ中心主義が蔓延している。北京オリンピックでは中国による新疆ウイグル自治区への弾圧についてカタールほど激しく攻撃されなかったではないか」と述べています。
 米国のチャンネルMSNBCのジャーナリスト、アイマン・モヒェルディン氏も、「西洋の偏見、見せかけの道徳的暴挙、深刻なダブルスタンダードだ。ヨーロッパ人は自分たちを世界のサッカーの伝統的な門番とみなしており、アラブ諸国がこのような重要なイベントを主催することに耐えられないらしい」とヨーロッパ側を批判しています。
 ドイツの週刊誌『デア・フライターク』の政治担当編集者、ルーツ・ヘルデン氏も同様の意見を、また『南ドイツ新聞』のドゥーニャ・ライツ記者もカタールに対する批判を非常に「独善的」だと述べています。フォーカス通信のウルリッヒ・ライツ記者は、「カントらによる啓蒙の後、我々ドイツ人は世界中に血の川を引き起こし、苦労して現在の価値観を獲得してきたはずだ。人に指導したいのであれば、もっと慎重になるべきではないか」とコメントしています。カントとは歴史認識と平和問題に深い思索を行い、世界的洞察を導いたドイツの哲学者エマヌエル・カントのことであり、「血の川」とは二つの世界大戦を指します。
 FIFA会長のインファンティーノ氏は記者会見で「カタールに対する批判は不当だ。カタールは進歩している。なぜそれが認められないのだ?」と批判を批判、これに対し、アムネスティ・インターナショナルは「FIFAは人権侵害に対する正当な批判を受け流した」とFIFAカタール擁護の姿勢を批判しました。
 さて、9月にDFB(ドイツサッカー連盟)、イングランド、オランダ、ベルギー、スイス、ウェールズ、フランス、デンマークの各サッカー連盟は、各チームのキャプテンが「One Love」腕章を着用することで合意しました。これはレインボーカラーのハートとスローガン「One Love」をモチーフにした腕章で、女性差別ホモフォビア、人種差別などあらゆる差別に反対し、多様性と寛容性を表すシンボルです。One Loveは政治的な意味を持たないこと、FIFAによって罰金の対象となった場合はそれぞれの連盟が支払うことを共同声明で発表していました。ところがFIFAは罰金ではなく、「少なくともイエローカード対象」となると警告してきたのです。FIFAカタール側からの圧力があったことは明白でした。イングランドなど7チームは連名で「罰金なら払う覚悟はあったが、選手に警告を受けるリスクを負わせることはできない」と声明を出し、FIFAの決定を非難しました。
 DFBは「多様性と相互尊重のメッセージは政治的なものではない。腕章をつけることを禁止するのは、『口をつぐめ』と言われているのと同じだ。我々のスタンスは変わらない」と声明を出しました。そこでカタールFIFAへの抗議として生まれたのが集合写真撮影時の「口を覆うポーズ」だったのです。
 これより数週間前、連邦内務大臣のナンシー・フェイザー氏(SPD)はカタールを訪れ、ドイツから同性愛者がサッカー観戦に訪れても逮捕されずに無事に帰国できるかを確認をしていました。ワールドカップ開催国にそのようなお伺いを立てるとは前代未聞です。カタール首長は同性愛者にも良心の呵責なくワールドカップへの渡航を勧められると「安全」を保証しました。しかし、実際にはLGBTの象徴であるレインボーカラーを身につけた観客は競技場に入ることは出来ませんし、レインボーフラッグを持っているサッカーファンが警察に連行される様子がニュースにもなっています。
 以上のことから、今回のワールドカップはドイツでは全く盛り上がっていません。本来ならばサッカーはドイツの国民的スポーツですから、あまりドイツの国旗を飾る習慣を持たないドイツ人もこの時だけは全国で国旗が溢れるはずなのです。ベルリンの町を車で走っても、小さな国旗を付けている車は一台もありませんし、国旗を窓に飾っている家やアパートも見当たりません。ショッピングセンターも小売店もクリスマスデコレーションがあるだけでワールドカップ関連のグッズはなし。スーパーの片隅に選手の顔写真のついたお菓子が申し訳程度に置いてあるだけ。ドイツ公共放送連盟ARDのアンケート調査によりますと、ドイツ国民の半数以上が「観戦を予定していない」と答えています。
 ニュース番組での街頭インタビューで「選手の口を覆ったポーズについてどう思うか」と尋ねられた高齢の女性は「あの程度で抗議だなんて意気地無しね。みんなで腕章をつけて逮捕されるところを全世界に見せるべきだったのよ」と怒っているのが印象的でした。😅
 ところで、カタール労働市場を知る国際労働組合連合BHIの副会長ディートマー・シェーファース氏が独紙『フランクフルター・アルゲマイネ』のインタビューに次のように述べているのですが、現場を知る人の意見として大変興味深いものでした。
カタールの建設現場の状況はここ数年で大幅に改善されており、ほぼドイツやアメリカの水準に達しています。しかし、この改善はカタールの200万人以上いる外国人労働者には適用されておらず、ワールドカップ建設現場で働く約4万人の労働者にのみ適用されたに過ぎません。私は何百人もの外国人労働者と個人的に話をしてきましたが、専制政治の国家では一朝一夕に状況を変えることは不可能です。それにこちら側の価値観を押し付けることによって、ややもすると、かえって反感を呼び、保守勢力が優勢になる可能性もあります。カタールは外交によって少しずつではありますが、良い方向に変わってきています。カタールには時間が必要なのです」