「法の支配」ではなく「人の支配」を助長する国葬の決定

閣議決定とはそもそも何か?――その濫用は「法の支配」を蔑ろにし「人の支配」を生む(高安健将さんインタビュー)

 

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「法の支配」ではなく「人の支配」を助長する国葬の決定

――そうした根本的な問題とも繋がってくると思いますが、安倍元首相の「国葬」が、憲法や法律を軽んじた形で進んでいくことの妥当性についてはいかがでしょうか?

法的には、国葬に関する目的や原則適用について定めるべきだと思います。なぜある人は国葬とならずに別の人が国葬となるのか、これをはっきりさせなければ、「法の支配」ではなくて「人の支配」になってしまいます。長く総理大臣を務めた人というのは国葬に相応しいのか。ほかの総理大臣や、国民栄誉賞を受けた方々はどうか。そうしたことを法律ではなく閣議決定だけで決定してしまう。これは他の閣僚がきちんとモノ申すべきことだと思います。けれどそうしたことが機能しない、自己抑制の効かない人々が閣議決定を行うことで、自分たちの都合で「国葬する人」を決定してしまうことになります。

特に政治家の国葬というものは、「あの人は凄い人だった」というイメージ操作にも使われ得るもので、人々の心情に政治的な縛りをもたらす可能性のあるものです。今回の国葬がそうしたことを狙っているものではないと信じたいですが、万一そのようなことがあればもってのほかです。どうしても国葬を行うというのであれば、やはり人々の間に一定の合意が必要ですね。

それが法律をつくること、基準を定めることだというふうに思います。「人の支配」の下では、私たちの権利というものは守られる保証がありません。ルールを守っていると思ったら、突然逮捕されたり、財産を奪われたりということが起こりえるのです。

国葬もやりたければやればいいじゃないか」という意見もありますが、国費で行うということは私たちが納めた税金が使われるということです。人々の提供した財産が納得のいく形で使われるというのは、民主的な社会にとっては根本的なことです。

加計学園問題では、「国家戦略特区制度」を利用しつつも、特定の組織のみが獣医学部を設置できるという決定がされました。みなが知っている、納得できる手続きでオープンに決定されるということが、国会で審議することの意味なんです。今回の国葬にあたりそれを行わないというのであれば、加計学園のときと同じようなことがまた起きることになります。

そもそも国葬とは何なのか、ということもほとんど議論されていません。国のお金でお葬式をするだけということなのか。けれどその場合でも、例えば遺族が宗教色を望んだ場合にはどうなるのか。国のお葬式だとすると、国民が何らかの形で参加を強いられるのか。テレビで中継されて黙祷を行ったり、弔意を示すことを迫られるのか――。

「テレビを消せばいいじゃないか」という意見もあるかもしれませんが、日本のように同調圧力の強い社会で、政治利用のおそれのある国葬を行うということ自体、思想の自由を侵害するかもしれないということは注意しなければなりません。信教の自由を理由にカルト団体の取り締まりを躊躇する人々が、なぜこちらの問題では躊躇しないのか不思議です。国葬をやろうという人々からは、説得力のある説明も聞こえてきません。国民的合意を得る必要性、国民に対する畏れを、政権を担っている人々が感じていないということを示す決定だと思います。