ジャーナリストの拘束は自己責任なのか 弾圧続くミャンマーで[安田菜津紀エッセイ] 2022年8月15日

ジャーナリストの拘束は自己責任なのか 弾圧続くミャンマーで[安田菜津紀エッセイ]
2022年8月15日 沖縄タイムス

 

[心のお陽さま 安田菜津紀](8)

 

 7月30日、ジャーナリストの久保田徹さんがミャンマー最大都市ヤンゴンで拘束された。一刻も早い解放を求めたい。ところが一部では、非難の矛先が不当な弾圧を繰り返す軍ではなく、久保田さん自身に向けられている。

 確かに取材者は、自身の責任において判断を重ね、現地に赴く。ただ気がかりなのは、今の日本社会で、久保田さんに向けられているような「自己責任」という言葉が「自業自得」と同義で使われがちなことだ。

 「ジャーナリストはリスクをゼロにすることはできない。ゼロにする唯一の方法は沈黙することだ。そしてその沈黙は、独裁者、暴君を利するだろう」

 これはシリアなどでジャーナリストや人道支援関係者の殺害、拘束が相次いでいた2015年に、メディア関係者の会合で米国ケリー国務長官(当時)が語った言葉だ。彼自身、権力側にいる人間であり、手放しであの時のスピーチを称賛はしかねるが、そうした立場にいる人物からこんな言葉が聞けるのか、と私は驚いてしまった。04年にイラクで日本人3人が拘束された際に、当時の小泉純一郎首相はじめ、要職にあった政治家たちがこぞって3人の言動などを非難した光景とは、あまりに対照的だったからだ。

 誰かの命を「自業自得だ」と切り捨てる社会は、矛先を向けられた当事者はもちろん、私たち皆にとって果たして「生き心地のいい社会」だろうか。

 ミャンマー国軍のクーデター以降、多くの命が理不尽に奪われ、市民やジャーナリストの拘束も絶えない。久保田さんの拘束直前には、民主活動家ら4人が処刑された。日本在住のミャンマーの人々からも、事態が悪化の一途をたどっていることへの悲しみと憤り、そして軍に加担するような日本政府の態度に対する深い失望の声を聞く。クーデター後も防衛省は国軍からの「留学生」を受け入れ、安倍晋三元首相の国葬も、国軍側に「通報」している。こうした現状を「知る責任」にこそ、今向き合う必要があるのではないだろうか。

(認定NPO法人Dialogue for People副代表/フォトジャーナリスト)