中国はなぜ覇権主義に突き進むのか

北東アジア・識者の寄稿シリーズ (2)
中国はなぜ覇権主義に突き進むのか


掲載日:2021年6月2日

敬愛大学経済学部 教授
藪内 正樹

 

https://www.cfiec.jp/2021/nea-0002-yabuuchi/

 

4. 習近平政権の性格と共産主義中華思想による複合覇権主義

中国による国際秩序への挑戦とは、自国中心の国際秩序を打ち立てる試みであり、南シナ海中印国境での動きも含め、覇権主義に他ならない。中国はなぜ覇権主義に突き進むのか。それは、習近平政権によって加速されたとしても、根本的には、2000年来の中華思想の土台の上にマルクス・レーニン主義を重ねて構築した毛沢東思想と、それを継承した中国共産党の政治理論による必然的な結果である。中国共産党の政治理論は、マルクス・レーニン主義毛沢東思想、鄧小平理論、三つの代表(江沢民)、科学的発展観(胡錦濤)、習近平思想という歴代指導者の理論を並べ、その連続性と発展性によって正当性を主張している。

毛沢東は、春秋戦国以来の歴史と思想に精通し、農民中心の革命方式や軍事理論を構築し、ソ連の全面的支援の下で、清朝以来の統一国家を実現した。フルシチョフソ連第一書記がスターリンを批判し、米国との平和共存路線に転じると、毛沢東ソ連を修正主義と非難し、1960年、中ソ関係は決裂した。1970年代に入り、互いにソ連と敵対する米国と中国は、米国が泥沼化したベトナム戦争から抜け出すため中国の協力を必要としたこともあって接近した。1972年、ニクソン米大統領が北京の毛沢東を訪問し、1978年に米中は国交を樹立した。それからオバマ政権末期までの米国政府は、中国が経済発展すれば価値観を共有するパートナーになると考えて経済発展を支援し、軍事面での協力も行なってきた。また、1976年に毛が没した後、大躍進政策文化大革命の悲惨な実態が明らかになるまで、毛沢東思想がソ連に失望した世界の左翼を引きつけた時期もあった。

毛の死後、1978年から鄧小平が始めた改革開放によって、中国は飛躍的な経済発展の道を歩み始めた。改革開放、つまり社会主義市場経済の複合路線は、「社会主義市場経済」あるいは「中国の特色ある社会主義」と呼ばれている。

1991年にソ連が崩壊した際、中国が社会主義圏の盟主になるべきだという党内の意見に対し、鄧小平は、「韜光養晦(とうこうようかい.才能を隠して力を養う)」「有所作為(できる範囲のことをする)」という外交方針を示した。この方針は、力に応じて行動するという意味であり、国際協調路線では全くない。実際、1982年には海軍司令員の劉華清に、2010年までに第1列島線(南シナ海全域)内、2020年までに第2列島線(小笠原、グアム、サイパンパプアニューギニア)以西で、米海軍の接近を拒否する能力を築くという海軍発展戦略を作成させている。また1992年には、南シナ海全域や尖閣諸島を中国の領土・領海と規定する領海法を制定した。そして、中国のGDPが日本を抜いて米国に次ぐ2位になる見通しが立った2009年、胡錦濤国家主席は北京に集めた外交官を前に、「韜光養晦」の後の「有所作為」に「積極」の2文字を付けて外交の積極化を指示し、翌年には「南シナ海は中国の核心的利益」との発言を行なったのである。

毛沢東が確立した中国共産党の政治思想は、皇帝を中心に文明の高みを築けば天下は全て従う、という中華思想を根底としている。古代には長江文明黄河文明があったが、統一王朝が成立したのは黄河中流域で、そこを中原と呼ぶようになった。湿潤な南方と違って黄河流域は乾燥し、陸路の移動に便利だったため、周辺の異民族が集まって交易が盛んになった。城内の治安を維持すれば、交易が盛んとなって富が蓄積された。戦国時代を統一した秦の始皇帝は、漢字や度量衡を統一し、法家の律令と中央集権制によって、広大な統一市場を実現したのである。話し言葉と無関係な表意文字も、異民族の交易には好適だった。漢代には、儒学によって社会秩序が制度化され、極めて効率的で安定的な専制統治システムが完成した。それ以降、歴代王朝は、軍事的に優越していた北方遊牧民や半農半猟民族がしばしば征服したが、統治システムと表意文字だけは継承された。つまり、中華文明の本質は、民族や生業とは無関係な、統治システムと表意文字である。個人の死生観と道徳観は、宗族(親戚)の中で完結し、処世は人脈形成、そして政治は始皇帝以来の専制統治システムという、互いに独立した3階層のメカニズムが重なって、中国の国家、社会は成り立っている。その文明では、天下の中心は唯一の専制権力であり、一時的に複数の権力が存在しても、やがて統一されてきた。

国際秩序の基となる国際法は、1648年、三十年戦争に疲弊した欧州で、それ以上の戦争や紛争を回避するため締結されたヴェストファーレン条約から始まった。一方の中華文明では、国際秩序と言えば華夷秩序、力に応じた従属関係しかなかった。既存の国際秩序に対し、力が足りないと思えば従うが、力がついたと思えば従わない理由は、歴史的に華夷秩序の経験しかないからである。

鄧小平理論は、「条件のある者は先に豊かになって良い。豊かになって遅れた者を引き上げれば良い」という「先富論」を掲げ、毛沢東時代は否定されていた個人の欲望を肯定したのである。また、市場を開いて外資を招き入れ、技術・ノウハウ・販路を獲得して経済を発展させ、「世界の工場」「世界の市場」と称される世界第2の経済を築いた (※8) 。

江沢民政権の最後、2002年11月に党規約に盛り込まれた「三つの代表」は、中国共産党を「労働者農民の前衛党」から「(1) 社会生産力の発展の要求、(2) 文化の前進の方向、(3) 最も広範な人民の基本的利益」の三つを代表するものと変更した。この変更を端的に解説すれば、資産階級でも共産党員になれる、または共産党員が資産階級になっても良いという意味であり、党幹部の欲望を肯定したのである。

胡錦濤政権が掲げた「科学的発展観」は、経済成長が生む構造的な歪みを正すため、産業構造、経済と環境、国際関係などの調和を目指すというものだった。しかし、この緩やかな課題設定は大きな成果を産まず、腐敗だけは悪化した。

そして習近平政権は、腐敗による民心の離反を恐れて未曾有の腐敗撲滅を展開すると同時に、その負の圧力を相殺するかのように、中国は建国期、発展期に続く強国期に入ったとして、建国100周年の2049年までに社会主義現代強国を築くと宣言した。そして、これを「中華民族の偉大な復興」という「中国の夢」と称した。「中国の夢」は、2010年に出版された国防大学劉明福教授の同名の書籍から採用されたと考えられており、同書も分析対象としたピルズベリーは『China2049』で、習主席の「中国の夢」は、毛沢東以来の一貫した長期戦略だと結論している。

習近平政権は、毛沢東以来の長期戦略の最終段階に至ったと認識し、その他の周辺環境を客観的に見る視点を失っている。その視野の狭さは、俗人的な能力によるものではなく、2000年来の伝統文化に制約された結果と見るべきだろう。毛沢東が依拠し、習主席も追随している中華思想は、統治システムの優位性によって四方の異民族が物産を持ち寄って交易する結果、文明の高みが生まれ、維持されることによって成立する。しかし、18世紀の産業革命を経て西欧の文明が優勢となり、中華思想実体経済の根拠を失った。1820年に清の人口は世界の37%を占め、世界経済の33%を占めたという推計がある (※9) 。この数字は、世界最大の経済ではあっても、一人当たり生産額を見れば、世界最高ではなく、世界平均を下回ることを表している。

清朝末期、欧米と日本に主権を侵害される中で遭遇した国際秩序は、中国にとって屈辱だったとしても、根拠が失われた中華思想固執することは間違いという他はない。鄧小平理論によって経済発展したのも、科学技術と経営学は全て西側から取り入れたためである。そして現在、世界のトップランナーとなった情報通信技術も、米国で研究開発された科学技術の応用である。米国の優位性は、移民社会の多様性と自由主義経済である。自由が創造と革新の素であり、思想や言論、表現を制約すれば、模倣や窃取は行われても、創造と革新は絶える。

100年以上前の「屈辱の清算」を国家戦略の基本とし、根拠を失った世界観に固執することは誤りである。民族や宗教の多様性を否定して均質化を試みることも、人類の文明への挑戦であり、文明の発展を阻害する誤りである。こうした誤りが複合して、中国はこれほど攻撃的に、国際秩序に挑戦しているのである。


※8 開放政策で設置された経済特区、経済技術開発区、沿海開放都市は、外資の進出を大いに促進した。これは、戦前の割譲地、租借地、租界が、欧米日の投資によって産業基盤が形成され、民族資本も育ったという事実と重なっている。
※9 Angus Maddison, “Monitoring the world economy 1820-1992”, Development Centre of the Organization for Economic Co-operation and Development, 1995.

執筆者プロフィール
藪内 正樹(やぶうち・まさき)
敬愛大学 経済学部 教授

横浜市生まれ。東京大学原子力工学科を卒業後、1977年日本貿易振興会(ジェトロ、現日本貿易振興機構)入職。香港大学語学研修(80〜82年、普通話)、(財)日中経済協会に出向して既存工場の技術改造協力を担当(82~87年)、ジェトロ北京事務所(87~90年)、大連事務所長(98~01年)、上海事務所長(05~08年)、海外調査部長(08~09年)を歴任。定年退職とともに2014年から現職。主な著書に『ビジネスのための中国経済論』ジェトロ(2014年2月)、主な論文に「電子商取引からデジタル中国へ」敬愛大学経済学論集(2018年7月)など。