咽喉を撫でられる黒猫           石牟礼道子

咽喉を撫でられる黒猫           石牟礼道子

 

 昭和初年、町内に窓のある家は少なかった。たいてい板の引き戸で、がらがらと戸を開ける音がすれば、夜が明けたことになる。その引き戸の内にガラス戸のある家はお店屋さんで、煙草屋、文房具屋、酒屋、美人姉妹で有名な紙屋さん、お菓子屋さんという具合である。
 ガラス窓といえば、半分田んぼに囲まれた小学校が、町内唯一の窓の集合体だった。もちろん木造校舎で、高学年の背丈のある男の子はそばを通る時、どういうわけだか、跳び上がって、職員室の中をのぞこうとしたものである。
 中の様子が見えるとも思えないのだが、何しろガラス窓の集合する建物というのは町内でも特別な場所で、当時、男先生たちは海軍の軍服に似た詰め襟の制服を着ておられたし、跳び上がって、見覚えてもらいたいとでも思っていたのだろうか。
 高学年になると一斉に窓拭きの日があった。低学年であったわたしは、それがたいそう位の高い掃除に見えた。水俣町立第二小学校といった。
 こことは別に鮮明に思い出されるのは、教師になって二度目の赴任先、山里の葛渡(くずわたり)小学校である。終戦後でわたしは十九になっていた。市内からいま車で行けば二十分くらいだろうか。その頃、山野線というローカル線があり、駅まで歩いて五十分、ローカル線で三十分くらいかかって通勤した。
 前任校でもそうだったが、村々は飢え、児童たちは衣服も靴もなく、雪の降る日に登校してくるのを見れば、破れた肩の地膚に雪が降り込み、素足に、擦り切れた藁草履をつっかけてくる。ボタンもないらしく縄の帯をしめている児らがいた。
 教室に暖房などもちろんなく、「霜やけ」にかかった素足をふるわせ、どの児も青い顔である。ガラスのない窓から無情な氷雨が降り込み、机を片寄せて授業をしたこと幾度か。よくもこんなぼろ学校に登校してくるものだといじらしくて、板書をしながら涙をこらえていたものである。
 その頃の児童らはもう七十近くになったろう。村には小学校を修繕する予算もなかったろうし、兵隊にとられて人材もいなかった。
 わたしの通った第二小学校には人情ぶかい用務員の小父さんがいて、トンカチを片手に児童に話しかけながら、器用に窓の修繕などもしていたけれども、山里にはそういう小父さんもいなかった。アフガニスタンあたりの児童の映像を見る度、わたしは終戦直後の悲惨を思わずにはいられない。
 校内一の暴力少年がいた。この児がところどころ残っていた十五、六枚ばかりのガラスを、一つ一つ、椅子を振りあげてたたき落としたことがあった。ある先生に反抗したそうで、大騒動だった。
 次の年受け持ってみると、これがめっぽう人なつこくて、まるで咽喉を撫でられる黒猫の風情であった。時々見せる孤独な表情に胸うたれ、家庭訪問してみると、父親は戦死、母親はゆくえ知れずだと、腰の曲がった老婆と老爺がわたしの手をとって泣いた。あの草小屋も崩れ果てたろう。

(『花いちもんめ』 2005年)