長島愛生園 加賀田一さん 「未感染児童」T君

長島愛生園 加賀田一さん

「未感染児童」T君

「いつの日にか帰らん」P223~P229抜粋


 病気になった親が収容されるときにいっしょに連れてきた子供さんがいました。それぞれ故郷では養育のできない事情があったわけです。この子たちのことを「未感染児童」と言うのですが、これもすでに偏見の意味を含んだ言葉です。「未だ感染していない」けれどもいずれは感染、発症するというニュアンスを籠めた命名であり、使い方が間違っています。

 この子たちは病気ではないわけですから、非患者地域の「保育所」で集団生活を送ることになり親子別々の生活です。この保育所には通算すると百人以上いました。月に一度の開園記念日にお互いに遠くから眺める機会を与えられていました。

 病気の学童は園内に設けられた愛生学園に通い患者の教師が教えました。医師・職員住宅の児童は船に乗って対岸の村の学校に通っていました。この「未感染児童」の保育所の子供たちには島内に黎明学園という立派な名称の特別教室があてがわれて、教師と保育師が正式の教科書を使って寺子屋式で教えていました。親が病気だったために教育差別を受けていたわけです。新憲法施行の翌年、1948年(昭和23年)からは地元の裳掛小学校の分校扱いになったことは先述した通りです。

 戦後、保育所育ちの子供たちが社会に出る準備や社会訓練をする場として、大阪に白鳥寮という施設が設けられました。近所周辺には戦災孤児のための寮といっていたようです。今の新幹線の新大阪駅の近く、大阪水道局の貯水池があった近くです。長島育ちと明記されて親の病気がわかれば排除され就職できないということで、いったん住所も白鳥寮に移してここから就職したり社会に出たりしました。

 そういう施設としてはもう一つ島根県平田市(現・出雲市)の古平田寺がありました。そこに錦織という青年住職がおられて、自分のところで一時子供を引き取りました。「未感染児童」は一度、住所や本籍もそこに移して、それから出ていったわけです。

 この白鳥寮が、対象者がいなくなり閉鎖になったのが1965年(昭和40年)のことです。ちょうど私が自治会長をやっているときでした。そのときに白鳥寮を大阪府に1610万円だったと思いますが、売却しました。その代金を資金にして入所者の社会復帰と社会福祉のための設備を整えました。すでに活版印刷、ラジオの組立て、車の運転、簿記、タイプ、園芸、パーマ、洋裁、編物などはやっていましたが、岡山はイグサの産地でしたから、地場産業の畳工場を新たに造りました。この工場で毎日8時間働くことで社会復帰訓練をする福祉厚生施設でした。 

 あまり語られていないのがこの「未感染児童」のことです。病気でもないのに患者同様の偏見、差別、排除を受けて育ち、一生をそのために苦しんだ人が多くいます。

 親から相談されて、私なりに世話をした子供にT君がいます。T君は黎明学園を出てからも、その頃は保育所に4~50人ぐらいいましたから、保育所の食料自給のために島内で働いていました。仕事は百姓仕事と豚舎での豚飼育でした。保育所の補助要員ですから、本来なら職員、少なくともそれに準ずる待遇を与えるべきです。それが成人する20歳まで無報酬のまま働かされていました。愛生園のための奴隷労働でした。

 その頃、T君の親から相談されて、 待遇の酷さに私も驚きました。保育所は私たちの居住区とは「別世界」ですから、生活全般その他なにもわかりません。保育所の教師が寮長でもあり、保育児童全員の親代わりです。園の窓口を通してその教師に面会を求めました。そして「社会復帰をさせてやっていただきたい」と要請しました。しかし彼女は「引受人がないと出すことはできません」とそっけない返事を返すだけでした。
「今後もここで働かせるなら、きちんと雇員として採用し、独立の道を与えてやって下さい」と強く申し入れると、「引受人ができれば社会復帰させます。探してください」と言うばかりで、雇員とすることについては触れようとしません。病人でもないのに「社会復帰」もおかしなものですが、それだけここは世間から「隔絶」されていたわけで、だからこのような少年が存在し、このような事実があり得たわけです。

 面会にもよく来られて、病気についてもよく理解している方に、親が病者であるために就職に困っているという事情をよく話した上で、「社会復帰」について依頼したところ、2か月ほどたって、大工さんの仕事をもってきてくださいました。棟梁の家に住み込んで大工職人の修行をするという良い話でした。

 この話がまとまったことを保育所に伝えると、意外なことに喜ぶどころか不満そうでした。それは手当もなしに真面目によく働く人間を失うことが残念という態度でした。

 親も当人も、仲介した私も、喜んでT君を送り出しました。もともと世間ずれしていない真面目な性格ですから、一生懸命に働いていたようです。

 それから5年たって、また親御さんから相談を受けました。T君本人から「給料を一度もいただいたことがない」と言ってきたというのです。住込みの徒弟制度で、子守りから掃除、家事一切をやらされているので、T君が小遣い銭の話をしたら、親方の大工に「お前の親はらい病で、行くところがないお前を助けてやっているのだから、有難く思え」と言われたというのでした。

 人の弱みに付け込んで利用しようという、ひどい大工でした。こんなところにいたのでは将来もなにもないことは明らかですから、新たな仕事先を伝を頼って探しました。

 幸いなことに6か月の見習い教習に合格すれば本格採用になるという好条件のベアリング会社が見つかりました。無事に見習い期間を通って本採用が決まりました。そこで戸籍抄本が求められ、提出しました。そこにはT君の父親について「光田健輔届出により死亡届出受付」と記されていました。当時、愛生園での死亡者はみな、そのように記録されました。

 会社の担当者から「あなたはどうして光田健輔と関わりがあるのか」と尋ねられて、T君は頭の中が真っ白になり、何も答えることができないでそのまま退室したそうです。人事係もよく光田健輔の名前を知っていたものです。 

 T君の消息がそれ以来わからなくなりました。親御さんは気が狂ったように、同じ保育所を出て外で生活している方を中心に手配して探しました。唯一の手がかりは京都でばったり出会ったという友人の話です。喫茶店に入ってコーヒーを飲んで別れたが、事情も知らないので詳しく聞くこともなかったから、どこで何をしているかわからないとのことでした。

 親御さんは生きるだけは生きていてほしいと言って、ただ生きていることを祈っておられました。病気になった人も気の毒ですが、保育所にいた百何人の子供さんが元患者と同じ思いを味わい、未だに隠れています。その人たちは今は家族もいて、穏やかに暮らしていることでしょう。

 今さらハンセン病のことをしゃべって、寝た子を起こすようなことはしてくれるなと、私も言われます。それは昔の影に脅えているのだと感じますけれでも、その人たちの気持ちを無視するわけにはいきません。女性の場合は保育所育ちを隠して結婚して、その後子供に恵まれ、孫もできて、比較的平和に過ごしておられる方もいると聞きますが、心のなかでは苦しい時期があったに違いありません。

 脅えなければならない影が社会に残っている限り、ハンセン病問題は解決したとは言えません。