もうひとつの「遺書」、外国人登録原票

もうひとつの「遺書」、外国人登録原票

2020/12/13 安田菜津紀 

国人登録原票 | Dialogue for People(ダイアローグフォーピープル)

 

幼い頃、母は私に月300冊もの絵本を読み聞かせてくれていた。1日10冊、となると図書館で絵本を選んでくるだけでも一苦労だったはずだ。ある時、珍しく仕事から早く帰ってきた父に、母に代わって絵本を読んでもらおうとしたことがあった。飲食店の店主だった父は、仕入れから店頭での調理に至るまで、忙しい日々を過ごしていた。この日もきっと疲れていただろう。それでも嫌な顔ひとつせず、私を膝に乗せてくれた。ところが、なぜか父はすらすらと絵本が読めない。簡単に読めるような大きなひらがなのページでさえ、何度もつかえる。「もういい!」私はしびれを切らして、父の膝から立ち上がった。そして思わずこう、言ってしまった。「お父さん、日本人じゃないみたい!」。父は少し困った顔をして、静かにただ、笑っていた。あの時の私はまだ、その言葉がどれほど残酷な響きであるかを知らなかった。
 

小学校入学前の私と父

 

『国籍と「遺書」、兄への手紙』でも書いた通り、父は私が中学2年生の時に亡くなるまで、自分のルーツを一切語らなかった。高校生の時、初めて海外へ渡航することになり、パスポートを作るために戸籍を手にした。父の家族の欄に「韓国籍」の記載を見つけた時の気持ちは、上手く言葉に表すことができなかった。疑問ばかりが沸き上がる。なぜ父は、自分のルーツを語らなかったのか。父の家族は生きているのか。朝鮮半島の、どこから、いつ渡ってきたのだろうか。知りたくても、死者に尋ねることはもうできない、と半ば諦めていた。

「亡くなった外国人の登録原票、交付請求できるの知ってる?」

友人にそんなことを教えてもらったのは、昨年のことだった。私が彼と出会った大学時代、彼はまだ、自分の親が在日コリアンだとは知らなかったという。亡くなった親の書類からそれが判明し、入管(現在の出入国在留管理庁)に親の外国人登録原票の写しの交付請求をしたのだという。「その書類にはさ、朝鮮半島のどこの出身かっていうことも書いてあって、俺もそれを頼りに親戚訪ねにいったもん」。そんな方法があったのか。父やその親族の手がかりといえば、戸籍に記載された「韓国籍」という文字と、祖父母の名前だけだった。ようやく旅の入り口に立ったようで、胸が高鳴った。
 

2015年3月、初めて降り立った済州島は、霧の中だった。

 

外国人登録原票というと、馴染みのない人も多いかもしれない。この制度を知るためには、戦後の在日コリアンの歴史に触れる必要がある。朝鮮半島出身者は、日本の植民地時代には「日本人」とされていたものの、終戦から数年後、今度は一方的に日本国籍を奪われ、特定の国籍を持たない「朝鮮人」として扱われることになった。さらに朝鮮半島は南北二つの国に引き裂かれ、1965年、日本は南側の韓国とのみ国交を結んだ。その際に韓国籍を取得した人もいれば、「朝鮮人」「朝鮮籍」のままでいることを選んだ人たちもいた。

外国人登録制度は、平たく言えば、戦後在日コリアンを主とした「外国人」を「管理」し、「治安維持」するためにできた仕組みだ。登録原票のうち、必要事項を記載したものが「外国人登録証」と呼ばれるもので、外国人は常時携帯するよう求められてきた。2012年に外国人登録制度が廃止され、外国人登録証が在留カードに代わっても、携帯義務は変わらない。日本で生まれた父や、祖父母の登録原票も、記録が残っているはずだ。

コロナ禍で外出を控えていた今年春、厚みのある茶封筒が入管から届いた。父と祖父の外国人登録原票は、コピーにコピーを重ねたのか、粗く、黒つぶれで読めない文字も目立った。もどかしく思いつつ、それでもようやく「自分の一部」を取り戻したような、温かな気持ちが湧き上がってきた。古い書類に刻まれた文字から、家族の歴史が立体的に表れてくる。ただ同時に、「管理」のためにできたこの制度で初めて家族の歩みがたどれたのだと思うと、複雑な思いも交錯する。

祖父の金命坤(きむ・みょんごん 一部記載は金明根)が日本に渡ってきたのは戦中、14歳のときだった。今は多くの観光客が日本からも訪れる、朝鮮半島南端の港町、釜山からだった。本籍は書類上、釜山から見て北西約90キロに位置する、現在の大邱広域市の辺りだ。

最初に記載されていた祖父の住所は、京都市伏見区。そして1948年に父が生まれた後はしばらく、大阪市西成区で暮らしていたようだ。祖父の職業欄には、「飲食店」や「衣服生地仲介」とある。西成を離れた後は、群馬や栃木、東京など各地を転々とした形跡があった。仕事の関係だろうか。それとも何か、別の理由があったのだろうか。とにかく、どこかに落ち着いて暮らしていたわけではないことは確かだった。そして残念ながら、私が生まれて数年後に、祖父は既に他界してしまっていた。父が祖父との関係を断っていなければ、幼い頃に会えていた可能性もあったということだ。
 

交付された祖父の外国人登録原票。

 

よく見ると、父がまだ小学校在学の年齢のとき、「保護者」がいつの間にか変わっていることが分かる。苗字も全く違うその人を、父は「叔父」と呼んでいたが、血のつながりがあったかどうかは分からない。

私たちの家には父の持ち物として唯一、古びた新宿区内の小学校の卒業アルバムが残っている。茶褐色のカバーを開くと、モノクロの集合写真が表れるが、そこに父の顔も名前も載っていない。「叔父」は仕事の都合で、父を引き取ったり施設に預けていたりを繰り返していたようだ。住所からして、卒業の直前まで、父はこの学校にいたはずだ。一緒にこの学校を旅立てなかった父を気遣い、先生がアルバムだけでもと送ってくれたのだろうか。過去の痕跡を殆ど残していなかった父が、このアルバムだけは保管していたことを考えると、何か思いがあったのかもしれない。

やがて父は14歳で叔父の家を飛び出し、中学にも通わず、老舗の鰻料理店で住み込みで働き始めた。その後独立し、新橋に構えたその店で、私の母がアルバイトとして働きはじめたのが二人の出会いだった。母が知っていることと外国人登録原票の情報をつなぎ合わせても、分かっていることはほぼこれだけだった。母は、父の両親の名前も存在も知らなかった。

亡くなった父はこうして、不安定な生活の中で、まともに教育を受けられる状況ではなかったからこそ、文字をすらすら読むことが難しかったのだろう。

登録原票には、3年ごとに指紋押捺し、その度に撮影された顔写真が並んでいた。少し頼りなげに見える青年から恰幅のいいおじいさんとなった祖父、昔から細身のままの父。けれどもそこに並ぶ父の目はうつろで、私が知っている、和やかな笑顔を浮かべた父の顔ではなかった。日本で生まれながら、外国人として「管理」され続けることを、父はどう、感じていたのだろうか。
 

父の外国人登録原票。