人間の罪に祈る

 人間の罪に祈る

 

 本来、日本人は、草にも樹木にも魚にも魂があると思っていた。私の周りの人たちは、そう思っています。人間だけが特別ではないと。水俣の漁師さんたちは、万物に魂があると思っています。信仰というか、帰依している。水俣の患者さんなんか、毎日祈らずには生きていけない。そうせずには魂が生きていけないと、声をつまらせておっしゃいます。何に対して祈られますか、とお尋ねすると、人間の罪に対して祈るとおっしゃる。わが身の罪に対して毎日祈ると。あの方々、心身ともに苦悩の中におられて壮絶な苦闘をしておられるのですけれども、これはもうチッソの罪とか政府の罪とか、市民たちが意地悪するから市民たちの罪だとか、おっしゃらない。人間の罪、わが身の罪に対して祈るっておっしゃるのは、人間たちの罪を、今自分たちが引き受けていると、お思いになるんでしょう。私は、神や仏を考え出した人はすごいと思いますが、今この、人類史の終わりに来て、この末世に現れる菩薩というのは、それは水俣の患者さんたちで、あの苦しみを得て、菩薩に成り代わって現れ給うたんではないかと思うんです。迂闊に神という言葉は使いたくないのですが、やはり神に近い人々が人類の苦悩を背負って、我が身に引き受けて、そして祈るとおっしゃっているんじゃないかしらと。
(「今際の眼」 石牟礼道子