「写真はときには物を言う」――水俣を世界に伝えた米写真家の軌跡
2017/12/26徳山喜雄(とくやま・よしお)
ジャーナリスト、立正大学文学部教授(ジャーナリズム論、写真論)
傑作写真「入浴する智子と母」が誕生
ユージンとアイリーンは、水俣病の患者やその家族と丁寧に関係を築きながら、精力的に取材、撮影をしていった。そのなかの1人が、胎児性水俣病患者の上村智子だった。智子は母親の胎盤を通して有機水銀に汚染され、肢体不自由で、目が見えず、口も利けなかった。
中央公害審議会での上村智子。東京=1973年頃(撮影:ユージン・スミス撮影)©Aileen M.Smith
ユージンは、母親の良子に智子を入浴させるシーンを撮影したいと申し出る。1971年12月、上村宅をユージンとアイリーンが訪れ、良子が当時15歳の智子を抱いて浴槽に入るシーンを撮った。
ほの暗い浴室の湯が輝き、湯船に浮かぶように浸かる智子。その光る目は天空を射るかのようで、それを見つめる母親の眼差しは慈愛にあふれていた。水俣病を象徴する傑作写真「入浴する智子と母」が誕生した。
「智子はわが家の宝子ですたい」
母親の良子さんは「智子はわが家の宝子(たからご)ですたい」と語っている。
「智子がわたしの食べた魚の水銀を全部吸い取って、一人でからって(背負う)くれたでしょうが。そのためにわたしも、後から生まれたきょうだいたちもみんな元気です。……ほんに智子はわが家の宝子ですたい」(原田正純『宝子たち 胎児性水俣病に学んだ50年』)
「入浴する智子と母」はLIFE誌72年6月2日号に掲載。世界に衝撃を与え、新聞や雑誌、国内外の写真集、ポスター、学校の教科書などにも使われた。撮影から6年後の1977年12月5日。家族の深い愛情に包まれた智子は、21歳の若さで亡くなった。ただ、父母の名を一度も呼ぶことはなかった。