「働くことの意味」を問い直す

 

「働くことの意味」を問い直す  NHK

          NHK「100分de名著―宮沢賢治」 プロデューサーAのこぼれ話


ブラック企業」「派遣切り」「過労死」「過労自殺」……今、世の中では、「働くことの意味」を問い直させる出来事が多発しています。もちろん社会問題として、制度改革や法律などを通してきちんと解決していかなければならない問題だと思いますが、そもそも私たちにとって「働く」とはどういうことなのかを考えさせられることが、ここのところ本当に多くなってきました。

宮沢賢治の作品は、数多くの文学作品の中で私自身最も愛する作品で、今まで何度となく全ての作品を読み返してきました。そして、読み返すたびごとに新しい意味を発見し、驚かされています。今回、講師の山下聖美さんや担当ディレクターと一緒に番組を作っていく過程の中で、いちばん驚かされたのが、賢治が童話などを通して「働くことの意味」を考え続けていたことに気づかされたことです。

山下さんが挙げてくれたのが「なめとこ山の熊」。賢治の作品の中では、私自身も五本指にいれたいくらいの作品で、いろんな解釈で味わってきましたが、この作品を「働くことの意味」を中心に読み解く山下さんの解説は、今まで感じたことのない新鮮さがありました。山下さんは、「働くこと」を、天から与えられた使命ともいえる「仕事」と、生活のために、自分の時間や労働力を切り売りし金銭を稼ぐ「労働」に分けて説明します。

山を自由自在に駆け巡り、熊たちと命のやりとりをする小十郎の姿は、殺し殺される関係にあるにもかかわらず、どこか神々しいものがあります。これを山下さんは「仕事」と呼びます。それに比べて、山を降りて、町で「熊の皮と肝」を二束三文で売り払わなければならない小十郎には、山の中で働いていたような輝きはありません。これを山下さんは「労働」と呼びます。生活のためとはいえ、商人に、「命の糧」ともいえるようなものを買い叩かれる小十郎の姿は、わびしく切ないものがあります。

「仕事」と「労働」。私たちが現実を生きていく上で避けられない「働くこと」の理想と現実。賢治は、人間が働くときに現れる二つの意味をしっかりと見つめていました。人間が生きていく以上、「仕事」と「労働」の両面に向き合うことは避けられません。大事なのは、その二つをきちんと見分ける目をもっておくことではないかと思います。

自分の時間を切り売りする「労働」だけに重心が傾きすぎるとき、人は「生きる意味」すら失いかねません。そういうときにふと立ち止まってみること。自分にとって「働くとはどういうことか」という本来の意味を問い直してみること。宮沢賢治の「仕事観」は、そのことに気づかせてくれる尺度を与えてくれるような気がします。また、制度改革、社会設計の際に、「働くこと」を単に「量的なもの」ではなく、「質的なもの」としてみる賢治の視点はとても大事だと思います。

思えば、「100分de名著」で取り上げてきたレヴィ=ストロースやガンディーもほぼ同じような考え方をもっていました。自然を一方的に支配する「トラヴァイユ(労働)」ではなく、むしろ自然のよさを受動的に引き出し、自然と調和していく「ポイエーシス(制作)」を労働概念の中ににとりもどそうとしたレヴィ=ストロース。「ダルマを果たせ、トポスに生きよ」という言葉で、宇宙全体の中で、誰とも交換が不可能なかけがえのない役割を果たすことを説いたガンディー。彼らの「仕事観」と宮沢賢治の「仕事観」は、奥深いところで響きあっているように思えます。

近代文明は、もともと一体だった宗教・芸術・労働という人間の営みをばらばらに分割してしまいました。賢治はその事態を、「農民芸術概論綱要」で「いまわれらにはただ労働が、生存があるばかりである」と表現しました。そして、こうした状況を乗り越えるべく、賢治は「芸術をもてあの灰色の労働を燃せ」と説きます。賢治が示したビジョンは、全てが「量」として測られてしまうようなグローバル資本主義が席巻する現代社会で、あらためて「働くことの意味」を深く問いかけていると思えてなりません。