井伏鱒二著『黒い雨』は「重松日記」(重松静馬・作)が基になっている

井伏鱒二著『黒い雨』は「重松日記」(重松静馬・作)が基になっている
2007年3月18日

 

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井伏鱒二『黒い雨』1970年(新潮文庫

 

略歴
井伏鱒二著『黒い雨』は、「重松日記」(重松静馬・作)が基になっている
『黒い雨』の連載スタート(月刊文芸雑誌「新潮」)
「黒い雨」の最初のタイトルは、「姪の結婚」であった
参考資料
中国新聞記事
略歴
1898年(明治31)、広島県深安郡加茂村(現・福山市加茂町)生まれ、小説家
1917年(大正6)、早稲田大学入学(後に中退)
1938年(昭和13)、『ジョン万次郎漂流記』(第6回直木賞
1950年(昭和25)、『本日休診』など(第1回読売文学賞
1966年(昭和41)、『黒い雨』(第19回野間文芸賞)、文化勲章授章
1993年(平成5)、死去(享年96歳)

 

 

井伏鱒二著『黒い雨』は、「重松日記」(重松静馬・作)が基になっている
井伏鱒二の『黒い雨』について、「ひろしま通になろう」p.34は、次のように述べている。

被爆した主人公とその姪が備後の山間に帰った後の物語で、黒い雨を浴びた姪に原爆後遺症が現われるまでの不安や苦悩を描いている。姪が原爆を受けていることで縁談を断られてしまうエピソードなどは、被爆者の精神的苦悩も切実に実感させる。
ひろしま通になろう」p.34

この小説には元になった資料がいくつか存在している。その中で中心を占めているのは、重松静馬(しげまつ・しずま)が書き残した「重松日記」 である。重松の名前は、小説の中にも主人公、閑間重松(しずま・しげまつ)として登場している。

重松は、広島で被爆後に生家のある広島県神石郡三和町小畠(現・神石高原町広島県東部すなわち備後の一部)に帰っている。そしてそこで、被爆当時の当用日記を基にして、原爆の惨状を大学ノート3冊に書き続けていた。

記録を残した理由について、現当主の文宏氏の記憶では、「昭和44年2月に、山陽新聞の川崎記者が来たとき、重松は「原爆を知らない孫たちに、惨状の一部を伝えたらと思って書いた。」と言っていた」(下記講演記録参照)という。なお、同講演会の演者であった重松文宏氏は、当時、広島県神石郡三和町の教育委員長だった。

重松が、この3冊(「重松日記」)の推敲を重ね、すべて完成させたのは1960年(昭和35)1月であり、すでに被爆(1945年8月6日)後15年が経過していた。それからさらに二年半経った1962年(昭和37)6月になって、重松は、この日記を旧知の井伏鱒二に目を通してもらいたいと願い出ている。

日記を受け取った井伏は、翌年3月末の重松宛封書で、「実はあの記録のなかからいろいろの挿話を拝借して私は小説を書こうと思ってゐましたが、無断で盗んではいけないし、それに実際のことを知らないのでそのままにしてをりました」(筑摩書房「重松日記」重松静馬宛井伏鱒二書簡pp.255-6)と、日記の返却が遅れていることを詫びている。

「これに対して、重松から、返すにおよばないからお手許に置いて御随意に利用して構わないことと、そのことで調査することがあれば遠慮なく申しつけてほしい旨の返信があった」(筑摩書房「重松日記」解説p.283)。

1963年(昭和38)9月になって、井伏は「重松日記」を題材とした小説を書く決心をしている。そして、「重松日記」の買取を持ちかけ、了解を得て、連載予定の新潮社と井伏自身で費用を捻出している。「この時点で「重松日記」の使用権は新潮社を経て井伏の手に移ったことになる」(筑摩書房「重松日記」解説p.285)。

『黒い雨』の連載スタート(月刊文芸雑誌「新潮」)
『黒い雨』は、月刊文芸雑誌「新潮」で発表され、1965年(昭和40年)1月から1966年(昭和41)9月までの21回連載で完結した。そして、10月に単行本が発刊され、野間文芸賞が贈られた。さらに、同年11月には文化勲章を授章している。

記録文学としての小説『黒い雨』の成功は、「重松日記」及び重松の活躍によるところが大きい。連載が始まってからも、重松は井伏の求めに応じて、被爆者との面談を設定したり、戦争中の暮らしぶりについて書き送るなどの骨を折っている。

連載原稿が完成した後の1966年(昭和41)8月に、井伏と重松は、福山で泊り込み二日連続で打ち合わせをしている。単行本化に向け、内容に正確を期するため、重松の意見を聞きたいと考えてのことであった。打ち合わせ完了後、引き続いて、重松の慰労を兼ねて向島尾道の対岸の島)で一泊している。

重松が帰ってきて、現当主の文宏氏に語った言葉がある。「「二人の共著にしたらどうか」と井伏先生に言われて、「私のような素人が名前を並べては、いけません。私は資料提供者として充分です」と言った」(下記講演記録参照)。

同じ場面について、筑摩書房「重松日記」解説p.288は、次のように記している。「井伏は重松に対して「これを二人の共著にしたいと思うが、どうですか」と申し入れたが、重松は「そんなことをすれば、先生のお名前に瑕(きず)がつきます。私は資料提供者として充分報われていますから・・・」と言って固辞したという話を重松家の当主から伺った」。

「黒い雨」の最初のタイトルは、「姪の結婚」であった
「黒い雨」のスタート1月号から7月号までのタイトルは『姪の結婚』であった。そのタイトルを、翌8月号から「黒い雨」に変更した背景について言及した書簡が残っている。(井伏鱒二書簡類180通、中国新聞記事2009/03/26)

同記事によると、「手紙によると、当初は、ある女性の日記を基に執筆を進めようとしたが、焼けて入手できなくなったため、女性の叔父にあたる重松静馬さんの日記を基にし始めた。それに伴い、タイトルを変えたと説明している」