ハンセン病 加賀田一さん 「いつの日にか帰らん」
「いつの日にか帰らん」P101~P110抜粋
医師・看護婦
私が愛生園に入所したとき、定員890名のところ、すでに1250名になっていました。看護職員は規定では400名に対して12名、つまり36人必要ですが、看護婦は20人でした。入所者はさらに増えて1450名になって、看護婦も24人になりましたが、そのうちの2名は召集されて従軍してしまいました。医師は7人いましたが、看護婦の数は圧倒的に不足し、まともな看護ができる状態ではありませんでした。
ハンセン病は不治の病と言われていましたから、医師や看護婦、職員の中には、信仰心が篤く使命感に燃えた立派な人格者がいました。入園当初の私には、ひどく衰弱し悪臭を放つ患者を抱きかかえて治療する若い看護婦がナイチンゲールのように見えました。
しかし、僻んだ見方かもしれませんが、結局その医師たちも、「この不治の病を研究してやろう」という若さからくる意欲と功名心で取り組んでいるように見えました。医師の欠員が出ないほどでしたが、戦後、ハンセン病が化学療法で治るようになると、専門医、研究者が目に見えて少なくなったのは、その表れといえるでしょう。
当時の治療法といえば「大風子油」という、南方で採れる植物性油脂の皮下注射だけでした。これは何百年も前から南アジアでハンセン病治療薬として使用されてきたものですが、他に何もないので、気休めとわかっていながら使われたような「薬」でした。
時々新聞などに「ライの特効薬新発見」という広告が「〇〇博士」の名前などを付けて出ましたが、その新薬が一年後にも話題になることは決してありませんでした。非常に高価でしたが、買う人がいるから、しばしば掲載されたのでしょう。金持ちの家では屋敷の奥座敷に患者を閉じこめていた時代です。「藁にもすがりたい」患者の願いにつけこんだ詐欺のようなものでした。
1933(昭和8)年、癩学会において、太田正雄(木下杢太郎として有名)は、光田先生を始めとする主流に対して「癩病は治らぬという確信があるようだ。隔離だけが絶対ではない。薬に対する懐疑論はよくない」と発言しました。太田先生はハンセン病菌の動物接種実験をずっと続け、1940(昭和15)年には、「癩根絶の最上策は化学的治療にある。自分の家で家族の看護を受けて病を養うことが出来ないのは、強力な権威がそれを不可能だと判断するからである」と、断言しています(「映画「小島の春」)。しかし太田先生は医療行政に積極的にタッチすることはなく、戦争末期、動物培養の成功を見ることもなく、プロミンの治療効果についても知らぬまま亡くなりました。
隔離政策を公然と批判し在宅治療を主張した唯一の医師に、京都大学特別教室の小笠原登先生がいましたが、主流派から「伝染病であることを否定するのか。国策に反する!」と猛烈な反発、攻撃を受けました。アメリカでスルホン剤から精製されたプロミン治療が始まったのは1941(昭和16)年のことでした。
解剖のし放題
また、愛生園では誰の了解もなしに遺体を解剖していました。ハンセン病そのもので死ぬ人はまずいません。併発した病気で亡くなります。主治医としては患部がどのようになって死んだのかをどうしても検証したいわけです。医者としては珍しいほど魅力があるのでしょう。
変わった症状がたくさんあって、標本にもしています。ハンセン病だけでなく、身体病変を知るためにたいへん勉強になったようです。医師としても知見を増やすためには解剖が一番いいそうです。徳永進先生も、「私もずいぶん解剖はしたからな。初めはびくびくして解剖してたけれど、しまいには子供がカエルの解剖をするのと同じで、何も感じなくなる」と言っていました。
片っ端からやっているので、私は事務所の方に「解剖には遺族の同意が必要と聞いてますが、誰かの了解をとっているのですか。法律違反ではないのですか」と質したら、「国費で治療しているからいいんだ」という答えが返ってきました。
研究材料になることを承知して大学病院等に無料入院する施療室とか施療患者という制度が当時はありました。国立療養所だから国がすべての面倒を見ているということで、この施療患者の扱いだったのかもしれません。死亡者の全員を解剖の対象にしていたようです。まさに治外法権のなかの違法行為でした。
ホルマリン漬解剖室から医者が肝臓か腎臓のような血だらけの臓器を下げて、本人も血だらけで試験室に帰る姿を何べんか見ました。それをホルマリンのビンに入れて標本にするのです。試験室には病巣の標本、結核の肺や、腎臓や肝臓のホルマリン漬がいっぱいありました。後の検証委員会で問題になった胎児もたくさんありました。
堕胎された胎児をどういう目的でホルマリン漬にしたのかはわかりません。ずらりと並んだ胎児のなかには大きな体になっているものもありました。不良な子孫をなくそうという民族浄化思想が元にはあったのでしょう。
私たち入所者が「一時帰省」を申請すると、光田園長じきじきの最終面接がありました。その面接が園長室の隣の実験室で行われたので、ホルマリン漬胎児の異様な光景を見た入所者はたくさんいたことでしょう。一度見たら忘れられません。1996年(平成8年)、現在の本館に建てかえるまでは、私だけではなくたくさんの人が見ています。
患者の死に方
愛生園では死は軽いものでした。戦争中、私が当直した日、寝ている姿そのまま、栄養失調で弱って死んでしまった人がありました。朝、起き出さないので、布団の中を見るとすでに息絶えていました。まだ30代の壮年期でした。患者が脈を取ったわけでもない。看護婦も医者も脈を取ったわけでもない。脈も調べないうちに死んでしまった。こういう姿を私は見てきました。
戦争末期の昭和19年や20年頃は、労働もきつく食料も不足していたのでもっともたくさんの死者が出ました。当時私は患者事務所の松寿療の役員をしていましたから、事務所に出ていて、入所者が亡くなったという連絡を受けると、そこへ行くのが仕事のひとつでした。故人の持ち物を勝手に持っていかれては困りますから、それらをきちんと記録し、慰安金を納めるというようなことをしていました。
多い時は、1日に4回、立ち会いに行ったことがあります。4人の死者が出たということです。「今朝、起きて『洗面だよ』と布団をめくったら死んでおった。それで看護婦に連絡して、それから医者に連絡してきた」という連絡を受けたこともありました。終戦の年には332人が死んでいます。実に入所者の23%です。これでは最後まで残ってもあと4年だなあと思ったものです。
結婚=断種 入籍ー個室
家内も歳をとり、86才になりました。声だけは元気ですが、体の方は少し弱ってきています。愛生園で会って結婚し、それからはずっといっしょに住んできました。子供はできませんでしたが、68年もいっしょに生活できたのは幸せなことです。
結婚した当時、世の中は国家総動員法が布かれ戦時体制でした。徴兵も軍需動員も私たちにはなかったのですが、いつ病気が再発するかわからず、園のなかで過ごすことを決意しました。それが家内との結婚につながったのです。
いまだに解明されない謎ですが、ハンセン病患者は男性が多く女性のおよそ2倍です。不治とされていたため、いったん入所したらここでお互いに助け合い励まし合って一生を過ごさせるというのが療養所の方針でした。園内で安らかな生活を送ってもらうためという理由で、外での既婚者にも所内結婚を認めていました。ただし未入籍結婚の場合は男の通い婚であることは先述しましたが、その場合も断種を受けなければ認められませんでした。女性の閉経した人まで行われていました。
私も悩み抜いた結果、断種手術を受けました。そのときは本当に情けなく、もう人間失格というか、男子ではなくなったような死んだような気持ちになったものでした。
私と同時期に結婚した4組のうち、私たち以外の3組は金をもっている人で、初めから4畳半の私室でした。私もお金があれば四畳半に入りたかったのですが、ありませんでしたので6畳での2組が新婚生活の始まりでした。こればかりは残念でしたが、家内にも「我慢してくれ」と頼み、とうとう6畳で3年間過ごしました。
6畳に2組の生活というのは、布団を敷くとそれだけでいっぱいです。今の人たちには想像もつかないでしょう。後に真ん中に衝立ができましたが、その頃はありませんでした。ですから、今日は私たち夫婦が友達のところに行って夜は空けておくと、あくる日の夜はもう片方がいなくなるという形で、互いに気遣って生活をしていました。
しかし内縁関係の人たちはもっとひどい状態でした。12畳半に女性が6人、そこへ通い婚で泊りにだけ行くのですから。それから考えると、結婚して順番がくれば、とにかく個室がもてたわけです。ただしその順番とは、夫婦者の一人が亡くなって独り者になると回ってくるわけですから、考えればひどいものでした。