寮父の手帖 「はるかなる希い」 政石蒙
ずいぶん多くの方から「可哀そうなお子さんたち」という言葉をきく。子供たちに対する愛情から発せられる言葉であることは解るのであるが、「可哀そう」という言葉に接するたびに私の心は蒼ざめてしまう。何気なく使われた言葉であるから口を尖らして抗議するほどのことではないかも知れないが、蒼ざめた私の心が納得しない。
子供たちはライという病気になったばかりに親のもとでの生活を奪われ、このような小さい島の療養所で、一般社会と隔絶された淋しい生活を余儀なくされているのであるから、不幸せであるには違いないが、可哀そうだと言えるであろうか。
能力がありながら働く意欲を喪失して乞食になり果てた人間や、生きる希望を失って自殺する人間や、苦難に圧しつぶされて骨抜きになった人間たちに対して「可哀そうな」という言葉が適切であるかも知れないが、現に逆境の中に生きており、肉体の苦痛にも負けず、或いは疼くような郷愁にもよく耐え、いろいろな形で迫ってくる死の恐怖と闘いながら、希望を見失うことなく生きつづけようとしている子供たちに「可哀そうな」という言葉を冠してよいであろうか。
せまい花びんの中畠のすみに
なにげなく
すくすく伸びてきた
すいせん
粉をふいたようなくき
雪が降りかかったような花びら
彼女は満開になっても
つかのまだろう
あの悪魔の
短刀のようなはさみが
いきりたって
彼女をたおすだろう
短刀の親方人間は
せまい花びんの中に
彼女をしめつけるだろう
あゝ━━
そうだ
私もライという病気に
せまい花びんの中に
しめつけられている
出来るなら
ふるさとの畠のすみに
帰ってゆきたい
この詩は子供の中でも病気の重いマスオ君の詩であるが、ここに絶望があるとは思われない。せまい花びんの中にしめつけられているように、枠の中で生きなければならない虐げられたものの抵抗ではあっても、生きようとする意欲を失ったものの心の表白ではない。不幸な運命を持つ彼であっても「可哀そうな」では決してない。
最近、プロミン療法に加えて、ストレプトマイシン、パス、チビオンなどの結核の新薬がライ治療に用いられ、更に最新薬イソニコチン酸ヒドラジッドも試用され効果をあげてきている。完全に治癒するまでにはまだまだ長い年月と、科学者の努力を必要とするであろうが、治癒への希望が持てるようになっている。
子供たちは、まだ人生の何分の一かの過去しか持たない。幼いということは大人たちよりも長く生きられる可能性があるのだから、大人たちに比して強みがある。子供たちの一生のうちに狭い枠の中から解放されることも希めなくはない。苦悩を耐えて生きつづけてゆけば、そのとき子供たちは過去の苦悩の深さに比例するだけの「生きるよろこび」を深く味わうことができ得るであろう。
島に病む子供たちは決して「可哀そうな」子供たちではない。この子たちのために心から希うのは世の健康な人たちが、「可哀そうな」というような憐みや同情を越えた愛情を寄せていただくことなのである。「一つの贈物」「慰めのお便り」も嬉しくありがたいのではあるが、それよりも「子供たちのひたむきな生」を知り、更に暖かい眼で見守っていただくだけでよろこびなのである。たとえそれは無形のものであろうと、多くの人たちの深い愛情が子供たちの心に響かぬはずはないであろう。そのような人たちが日本に満ちあふれる日を、私は希い夢みている。
政石 蒙(本名・政石道男)さんの略歴
大正12年6月愛媛県生まれ。昭和14年上京し東京鉄道学校卒。昭和19年西部36部隊に入隊、直ちに満州へ派遣。敗戦後ソ連軍捕虜となり、昭和22年モンゴル人民共和国抑留中の昭和22年4月に発病。病院外の隔離小屋における生活中に作歌をはじめる。昭和22年11月復員。23年7月大島青松園に入園。昭和24年~33年少年療寮父。23年「青松歌人会」「龍」「短歌山脈」に入会。25年「創作」に転じ長谷川銀作に師事。昭和43年9月第5回牧水賞受賞。昭和47年8月「長流」創立に参加、編集委員。『稜線』(昭和27年)『澪』(昭和29年)『三つの門』。処女歌集『乱泥流』(昭和39年)(歌文集『花までの距離』(昭和54年)『ハンセン療養所歌人全集』(昭和63年)歌集『遙かなれども(平成2年)』