ⅩⅩⅩⅩⅩⅩⅣ「水俣−患者さんとその世界−」を観る聴く、 『エイガニッキ』 SASHI−ハラダ  2018/6/18

ⅩⅩⅩⅩⅩⅩⅣ「水俣−患者さんとその世界−」を観る聴く、 『エイガニッキ』 SASHI−ハラダ  2018/6/18



  湾の中、海の上、靄の中、小舟が浮かんでいる、漁、漁師、ものくろの世界、現
実か,幻か,夢か、錯覚か、過去か,未来か,既に水銀に侵された海、いや、これは
過去の未だ自然のままの海、だが,いつの事だ,戦後、戦前、既に,近代の最中に、
汚染は始まっていないか、私たちは,知らなかった、誰もが,近代の中に在る現実
を、それは帝国主義でも,ファシズムでも、戦争、原爆、ばかりでも無く,私たちの
生活として,日常として,有る、公害、経済生活、資本主義、此処を生きるとは、此
処で生きるとは、この公の害を生きることなのだ、水俣病を、水俣を、患者たちは、
肉体を持って、受け入れた、魂をも含めて、受け入れさせられた、いや,加害者の
チッソばかりでは無い、社員ばかりでは無い、幹部ばかりでは無い、市民も、日本
も、世界も、それ以前に生まれた近代人も,それ以後に生きる私たちも、共に背負わ
されてあるのだ、背負ってあることの事実を,しっかり,ゆっくり,見つめ直そう、
映画の始まりだ、映画と云う近代、近代と云う映画もくみ込んで、問い直そう、カメ
ラの視線と共に、遠く離れて居ようとも,この視線の外はあり得ないのだから、石牟
礼道子の言葉の外には日本は、世界は、無いのだから、だから,始まりの靄の中、淡
い光りの中、過去で在り、未来で在り、漁師の生活の中に,中から、獲られる魚、湾
の奥に見える山、空、光、雲、波間、船、家々、路地、人々、大人、子ども、患者、
患者さんたちの,映像、家、小屋、部屋、家族、映画は、闘争に向かっての、いや、
この時点での最高のイベントである本社での闘争に向かっての、時間軸と,現実の患
者さんたちの日常と云う横軸と、交錯して、集会所で語らう人々、集まり、お茶飲み
話の如く、御詠歌、認定患者の申請をと未だ認められない患者家族に勧めて歩く男、
話は聞き入れるが不安で、差別が有るから、この映画ばかりでは、その当たりは良く
判らない、細かい説明が無いから,文字として現れた部分に語られているのか,画像
が悪くて判明しなかったが、本を読んでいれば判ると云うことか、提出された案に,
補償金に納得する者たちと,反対する者たち、これらの不和もまた映画の中では判ら
ない,弁護士の説得、聴き入るばかりの患者たち、これらの,収まりの付かない思い
が,支援者たちの思いが、東京に向かわせる、患者たちを、お遍路、御詠歌、鈴の
音、響き、一株主、株主となって,株主総会にと、出席しようと、語る男、笑みで聴
き入る患者たち、株主になれば,社長にも会える,話せる、会社の重役にもなれる、
夢物語ではあるが,そんな気楽な幻想は抱いては居なかろうが、これまで家族が,仲
間が死してきた、まさに戦争なのだから、水俣戦争なのだから、街の俯瞰撮影、工
場、廃液、この廃液の中に,生きてきた街、日本、世界、恥ずかしい私たち、それが
判ったのならば,解決しなくては、にもかかわらず,認めない,会社は満足に謝らな
い,当たり前、これを遣ってしまっては,近代日本、戦後日本が崩壊してしまうか
ら、だから、チッソの社長も、謝れない、彼もまた財界に依って配置された社長、業
界、経済界、政府、反対する側の筈の野党もまた、根本的な解決、解体、から遠く離
れて、和解に、まさに、此処に在るものは、60年安保で在り、三池闘争であり、水
俣なのだ、そして、それは、この撮影当時、沖縄で在り、朝鮮半島で在り、台湾で在
り、ベトナムでもあるのだ、今日的には、原子力で在り、フクシマなのだ、その始ま
りの、天皇でもあり、敗戦を作り出した、日本とアメリカにとってのヒロシマでもナ
ガサキでもあるのだ、斯くて、お遍路は、大阪に、街中に、殺到する人々、アジ演説
の若者、支援者、怨の文字の、黒字に怨の幟、連なって、御詠歌が、行進が、デモ
が、列車の中、チッソ本社、本社前、騒然、社の者たち、支援者、マスコミ、そし
て、御詠歌の患者たち、狭く仕切られた入り口、株主総会、舞台の席、会場に入った
患者たち、あつまった株主たち、いや、支援者、総会屋、黙祷、舞台に社長たちが、
幹部たちが、社長の挨拶、まずは患者に謝れ、発言させろとのヤジ、押し切ろうとす
る、淡々と読み上げるばかりの社長、なだれ込んで舞台に上がる者たち、入り乱れ
て、アジ、怒り、罵り、殴り合い、警護、誰が、誰を、社員が、社長を幹部を、支援
者が仲間たちを、患者たちの御詠歌、鈴の音、素晴らしい、これこそが、日本、まさ
交響曲、日本近代と云う和音、映像として、音として、患者たちも舞台に、何も語
らず、表情を表さない社長、患者の叫び、嘆き、訴え、カメラは、客観、主観、患者
と共に招かれて、会場の中、何を捕らえる、何を見る、何を聴く、それでいて、ビル
の外では、淡々と東京が在ったに違いない、斯くて、また始まりの海に、浜に、小屋
に、生活に、漁に、漁師に、全ては、一時の幻覚、見間違い、聞き違い、いや、い
や、今もって患者が、見ている、現実の先に、聴いている、現実の奥に、触れてい
る、現実の手前にある、私たちそのものに、私たち、わたしの、振る舞いそのもの
に、あらためて、わたしにその外はないのだ、患者さんたちに招かれて、皆が水俣病
に認定されているのだ、舞台の社長や幹部の顔こそが、水俣病そのものでは無いか、
交響曲を解き放て、断ち切れ、