沖縄はずっと苦渋の判断 琉球放送元アナウンサー・川平さん、宜野湾市長選見つめる
2016年1月25日 東京新聞朝刊
「政府は沖縄を分断し、苦渋の判断をさせ続けている」。米軍普天間(ふてんま)飛行場(沖縄県宜野湾(ぎのわん)市)の移設が争点となった宜野湾市長選。琉球放送の元アナウンサー川平朝清(かびらちょうせい)さん(88)=横浜市=は、複雑な思いで見守った。選挙のたびに基地問題で割れる父祖の故郷。「沖縄にもう新たな基地はいらない」と訴える。 (安藤恭子)
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「ここに大きな基地ができて、軍艦が泊まり、飛行機が飛び立つことになる。二百年続くという基地だ。おじいさんはどうしても止めたいんだ」。昨年十二月、大学生と高校生の孫三人を含む家族十一人で名護市辺野古(へのこ)を訪れた川平さんは、青く穏やかな海を前に、基地反対への思いを語った。
明治期まで四百五十年続いた琉球王朝に仕えた家系の出。敗戦翌年、台湾から沖縄へ戻った。日本軍が司令部壕(ごう)を置いた首里城は跡形もなく、足元に転がる軍靴から人骨がのぞいた。一緒にいた母は「国破れて山河あり、というけれど山河もないわね」と肩を落とした。
米兵による事件事故も相次ぎ、米国占領に対する県民の不満は高まっていった。米国留学後、琉球放送に入社した川平さんは、取材規制の中で、市民のデモや選挙での革新候補の訴えも報道した。
一九六〇年代、あるパーティーで、沖縄の最高責任者だったポール・キャラウェイ高等弁務官と話したことがある。「琉球における自治は神話」と公言し、県民の反発を招いた人物だ。本土復帰に批判的な立場から「日本は今、沖縄にいいことを言っているが、どういう所に帰ろうとしているのか、わきまえた方がいい」と皮肉を言われ、川平さんはむっとした。
七二年の本土復帰後も、米軍基地の全面返還という沖縄の願いはかなわない。さらに今、「世界一危険」とされる普天間飛行場の移設を理由に、辺野古への基地建設が進む。「今考えれば、キャラウェイの言葉は率直だった。本土復帰しても沖縄の自治は限られ、日本は沖縄にずっと苦渋の判断を強いてきた」
♪われらは叫ぶ 沖縄よ われらのものだ 沖縄は 沖縄を返せ 沖縄に返せ
六十年前の本土復帰運動で歌われた「沖縄を返せ」という歌は、辺野古で座り込む市民らに受け継がれている。変わったのは、訴える相手に米国だけでなく、日本政府も加わったことだ。
「軍隊がいる所が最も危険というのが、沖縄戦の教訓。辺野古に基地ができれば、沖縄は出撃拠点として固定化してしまう。だから歌は、沖縄を、沖縄に返せと言っているんです」
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<かびら・ちょうせい> 1927年台湾生まれ。戦後の50年代から沖縄でラジオ局のアナウンサーを務め、米国ミシガン州立大大学院に留学。67年に公共放送「沖縄放送協会」の初代会長に就くなど、沖縄の放送界をリードした。72年の本土復帰とともに東京のNHKに転勤。東京沖縄県人会長などを歴任し、昭和女子大名誉理事・名誉教授。DJのジョン・カビラさん、俳優・キャスターの慈英さんの父。